時代は変われども意義は変わらず、
時を超えた「奇跡」が存在する場所

高野山の「奥之院」には、歴史上に名を残した数多の偉人の魂が祀られている。その供養塔の数は実に数万基にも達するそうだが、特に多いのが織田信長・明智光秀・武田信玄・上杉謙信といった、いわゆる戦国武将を祀ったものである。

その名を聞けば歴史に詳しくない人でも知っているような著名な人物たちである。生前、敵として戦ったり、殺したり殺されたりした間柄の人物が同じところに祀られているわけである。

主義主張も信仰していた宗派も違った人々の供養塔が、なぜこのようにひとつの場所に集まっているのか。なぜ高野山だけが全国各地の寺院の中で、特別な存在なのか。

奥之院の拝殿にあたる燈籠堂に僧侶たちが入っていく様子を描いた江戸時代の絵図。
紀伊国名所図会/江戸時代後期 三編(六之巻)

9世紀の初め、高野山は弘法大師こと空海が創った。空海は若い頃から学び、中国で自らの教義として発展させた真言密教の教えを広めるべく、ここを理想郷にしようとした。

それ以来、高野山が絶対的な「聖地」として1200年間、発展を続け、安泰を保ってきたかといえば、そうではない。日本の歴史は闘争の歴史といっても過言ではないが、高野山も大小さまざまな争乱に巻き込まれ、一時は滅亡の危機に瀕したり、戦争によって全山が危うく焦土と化す状況に追い込まれたこともあった。

また現実的なことをいえば、戦国時代までの寺院は各地にある荘園(寺領)から得られる年貢によって運営されていたが、荘園が次第に武士に侵略されたため、収入の面でも壊滅的な打撃を受け、危機に瀕した。

こうした危難を乗り越えるため、高野山は大名家に対して援助を求めるなど、積極的に働きかけた。援助といえば聞こえは悪いが、高野山に墓地を建て、先祖や身内の供養をするよう勧めたのである。

高野聖と呼ばれる信者たちも、空海の事跡を広め、勧進と呼ばれる募金を行って各地を行脚した。そうすることで高野山の名は全国に知れ渡り、弘法大師・空海の伝説も膨らんでいき、「聖地」としてのイメージが広まっていった。

諸国六玉川 紀伊高野(広重・明治24年)国立国会図書館蔵

争いと殺戮に明け暮れていた戦国武将は、その高野山に熱い視線を向けた。心の平穏、救いを求める者も多かった。「越後の軍神」と称され、戦では敵なしであった上杉謙信は大名としての日々に疲れ果て、高野山に逃げ込もうとしたほどである。

高野山内に建つ各寺院と檀家契約を結び、そこに故人の位牌を納め、墓を立てて供養をしてもらう。全国に名の知られた高野山と契約を結ぶことは、武将にとっては対外的なステータスにもつながったと想像できる。

また、高野山の側も経済力のある大名家を壇家とすることで、寺領の保全を図ることができた。こうして利害が一致した高野山と武将は強く結びついたのだ。

そして、高野山は度重なる危機を乗り越え、生き残った。一時は荒廃したり、度々起こった火災によって伽藍が焼失したりもしたが、依然、紀州の山上に高野山という場所は、千年の時を超えて存在し続けた。

歴史の潮流に呑まれ、失われていった寺社も多い中で生き残ったことは、高野山が開祖の空海によって護られ続けている、何よりの「奇跡」の証明となったのだ。

高野山奥之院へと続く

かつて戦国武将たちが寺院と交わした契約は、数百年を経た現在も続く。武田信玄と成慶院、上杉謙信と清浄心院、徳川家康と蓮花院、真田家と蓮華定院といった具合である。そして各宿坊が所有する奥之院の墓地には、武将たちの供養塔が苔むした姿で往時のままに建っている。

「彼ら」を訪ね、人々は高野山へ、奥之院へと足を運ぶのだ。奥之院だけで片道約2㎞の距離を厭わず往来する姿は、昔も今も変わりない。

言い換えれば、高野山の歴史は日本の歴史のうねりによって育まれてきた。空海はさまざまな伝説を生み、神格化されているが、彼は紛れもなく実在し、我々と同じこの世に生を受けた人間であった。

だからこそ武将たちも高野山を信仰したはずである。そうした高野山の「史実」を紐解いていくことで、さらなる真実と魅力の発見に辿り着けるだろう。

文/上永哲矢
神奈川県生まれ。歴史コラムニスト、フリーライター。『男の隠れ家』「時空旅人』などの雑誌・ム ックや各種WEBでも歴史や旅のコラムを連載中。『密教の聖地 高野山』(サンエイ新書)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)など。歴史講座の講師、歴史イベントの企画も務める。オフィス【哲舟】代表。