江戸のホントをたっぷり紹介!
1【両国】花火の掛け声「た~まや~か~ぎや~」の元となった店が今もある
32年間、両国で花火合戦を繰り広げていた玉屋と鍵屋。玉屋が火事で全焼してしまったことにより、勝負は終了した。玉屋は江戸を追われ一代限りとなってしまったが、鍵屋は現在も江戸川区東小松川で引き継がれている。
2【両国】両国の花火大会は“厄払い”の意があった
今も私たちの目を楽しませてくれる花火。八代将軍・吉宗が、当時の大飢饉やコロリ(コレラ)という疫病による死者の弔い、そして厄災を打ち払う目的で納涼祭を行い、その時に花火をあげさせたのが花火大会の始まりといわれている。
3【両国】江戸にアラビア産の“ラクダ”が現れたことがある
舶来品のひとつとしてオランダ船で長崎に上陸した。その後、中山道の板橋宿を通って、両国広小路の小屋にやってきたという。当時の巻物「象及駱駝之図」にも、そのラクダの姿が描かれている。
4【銀座】銀座と“金座”があった
銀座とはもともと、江戸幕府の銀貨を造る所のこと。同じように金貨を造る所もあり、「金座」と呼ばれていた。現在は東京都中央区の日本銀行の近くに金座通りという名前のみが残っている。
5【本所】遠山の金さんと鬼平は“同じ場所”に住んでいた
鬼平こと長谷川平蔵が住んでいた本所三ツ目の屋敷跡に、のちに遠山の金さんこと遠山金四郎が下屋敷を建てたといわれている。現在はこの近くに、2人の屋敷跡であることがわかる銘板が残っている。
6【谷中、湯島、目黒】江戸に“宝くじ”の聖地があった
寺社の修繕などを目的として行われた富くじ(現在の宝くじみたいなもの)が、民間で大流行。その中でも谷中の感応寺、湯島天神、目黒不動尊は「江戸の三富」と呼ばれ、多くの人で賑わったという。
7【駒込】「一富士、二鷹、三茄子」の富士は富士山ではなく“神社”のこと
初夢で有名なこのフレーズは、駒込富士神社が富士塚を御神体としていること、周辺に鷹匠屋敷があったこと、駒込茄子が名物であったことが由来といわれている。この神社はもちろん今も現存している。
8【両国】相撲は寺社の“資金集め”を目的として始まった
寺社の建立資金を集めることを目的として、両国の回向院境内で相撲興行が毎年行われた。回向院で行われていた相撲はやがて明治42年(1909)に両国国技館が完成してからもずっと開催され、現代まで引き継がれている。
9【深川】深川の芸者は「蔦吉」「豆奴」など“男名”を使った
幕府公認の遊郭であった吉原に対して、深川は私娼屋が集まった岡場所だった。“辰巳芸者”と呼ばれ、羽織を着用し冬も素足と、吉原の花魁とは違ったすっきりとした粋な姿が魅力だった。
10【浅草】“歌舞伎役者”の名前にちなんだ町があった
江戸歌舞伎の創始者である猿若(中村)勘三郎にちなんだ、猿若町という芝居小屋を集めた町があった。現在は南浅草と統合して猿若町はなくなり、記念碑のみが残されている。
11【六本木】赤穂浪士終焉の地のひとつは“六本木ヒルズ”
毎日多くのお客さんで賑わう六本木ヒルズ。実はこのヒルズ内にある毛利庭園は、毛利甲斐守邸跡であり、岡嶋八十衛門ら赤穂浪士10名が切腹した地である。現在、この地には記念看板が建てられている。
12【台東区など】“大トロ”を食べることは恥とされていた
当時はマグロの脂っぽさが嫌われていて、食べずに捨てられていたという。天保の大飢饉以降、醤油に漬けた“づけ”という調理法が発明されて、マグロは庶民に受け入れられるようになっていったという。
13【深川】江戸の寿司は現在の“2倍”のサイズだった
当時の寿司は現在のおにぎりくらいの大きさがあったという。上の絵の女性が持っている寿司は、深川の握り寿司発祥の店「松の鮨」。この店から、握り寿司が江戸で主流となっていった。
14【品川】“巨大クジラ”が発見されたことがある
寛政10年(1798)、品川の浅瀬に乗り上げた巨大クジラが発見された。体長は約15・6mもあり、ついには時の将軍・家斉が上覧するほどの騒ぎに。その時の供養碑が今も品川に残っている。
15【日本橋】江戸時代では“魚市場”といえば「築地」ではなく「日本橋」だった
江戸が誕生した頃に始まった日本橋魚市場。関東大震災で築地に魚市場が移転するまで、約300年繁栄していた。築地に移転する前から営業している寿司店(吉野鮨本店)が現在も残っている。
16【小石川後楽園】水戸黄門の助さん格さんは実は“学者”だった
水戸黄門(徳川光圀)が水戸藩主になった時、歴史を編纂する局・彰考館を小石川に移動させた。ここの学者たちが全国を訪問したのが、『水戸黄門漫遊記』のもと。助さん格さんのモデルとなった人物は彰考館の総裁だったという。
17【中野】幕府公認で約8万頭の“犬屋敷”が建築された
生類憐れみの令によって捨て犬が町にあふれたため、犬屋敷が建てられた。最盛期は約8万頭の犬が住んでいたといわれている。現在はそれらを記念して、中野区役所前に犬の銅像が複数置かれている。
18【神田】“今川焼き”は神田の今川橋で売り出されていたことが由来
小麦粉の皮で餡を包んだお菓子が今川焼き。現在では川が埋め立てられ橋も存在しないため、日本橋本町4丁目に碑が残されている。当時はくぼみのある焼き型ではなく、銅板に輪っかを乗せて焼いていた。
19【両国】“おなら芸”で評判をとった男がいた
男の名前は“昔話花咲男”。おならで鶏の真似をしたり、浄瑠璃に合わせてリズミカルに演奏したりする様子が、当時の見せ物小屋で話題になった。実際に平賀源内が目撃し、その様子が『奇態流行史』に描かれている。
20【日本橋】“川柳”は江戸で生まれた
川柳として認められた句が初めて発表されたのが宝暦7年(1757)8月25日。そのひとつが「降る雪の 白きを見せぬ 日本橋」。雪が積もるひまがないほど、日本橋が繁盛していることを表している。
21【深川】飲み水を売る「水売り」という商売があった
本所・深川は埋立地だったため、井戸から良質の水を得るのが難しく、水売りから飲み水を購入していた。深川に上水道が通ったのは明治32年(1899)。
22【白山】“八百屋お七”の墓が実在する
歌舞伎などの演目で有名な八百屋お七。そのお七の墓が文京区の円乗寺に実在している。恋愛成就の願掛けとして墓石が削り取られてきたため、墓石は小さくなっている。
23【四谷】伊賀忍者にちなんで名付けられた「伊賀町」という町があった
徳川家に仕えた伊賀衆の組屋敷があったため、現在の四谷のあたりに伊賀町(現・新宿区三栄町)と名付けられた町があった。この地域にいた服部正成(通称・半蔵)は、伊賀同心200人・与力30騎からなる伊賀衆の組頭であったといわれている。
24【小石川】資格試験はなく誰でも“医者”になれた
当時は比較的容易に医者になれ、江戸の町には2500名ほどの医者がいた。ただし、なにせ免許がないためヤブ医者も多かったという。そこで享保7年(1722)に、江戸時代初の公共病院(小石川養正所)が設けられた。
25【永代島】江戸にも「ゴミの島」があった
江戸時代の初期は好き勝手にあちこちに捨てていたが、幕府が明暦元年に永代島に捨てるように命じてから、江戸のゴミ処理はスムーズになったという。リサイクルもこの頃は当たり前の考えだった。
26【本郷】加賀藩前田家の“大名屋敷”は東京ドーム7.3個分の広さ
加賀前田家の本郷上屋敷は約10万4千坪(東京ドーム7.3個分)。とにかく大名屋敷は広大で、入り口(正門)を探すのも大変だった。そのため切絵図(現在でいう地図)に書かれた文字で入口を示していた。
27【両国】江戸時代に“ジビエ専門店”があった
両国には“ももんじ屋”と呼ばれる獣肉専門店が点在していて、猪肉や鹿肉などを味わうことができた。今も同名で営業している店が両国に1軒だけあり、猪肉の鍋を楽しむことができる。
28【江戸全域】江戸の一番の交通手段は籠ではなく“船”だった
江戸時代といえば籠をよく使っているイメージがあると思うが、江戸幕府によって河川の整備がかなり進んでいたため、船の利用が盛んだった。特に猪牙舟(ちょきぶね)と呼ばれる小舟が、人々にとって馴染み深かったといわれている。
29【日本橋本町】江戸の“名戯作者”たちは店も経営するやり手だった
式亭三馬や山東京伝などは店を持っていた。式亭三馬の店の様子は、草双紙『女房気質異赤縄』にも描かれている。ところどころに「馬」の文字をデザインした三馬のマークが描かれており、茶目っ気がある。
30【江戸全域】江戸の範囲は“江戸後期”に決まった
幕府が江戸の町の範囲を決定したのは、文政元年(1818)と江戸時代のかなり後半のこと。その境界は寺院が寄付を集める活動を許可された範囲で決められ、幕府の正式見解として「朱引図」が示された。
江戸時代の様子に興味を持ったら「深川江戸資料館」がオススメ
江戸時代の様子を体感してもらうため、実物大で忠実に再現された当時の深川の街並みが展示されている。まさしく目で見て楽しめる資料館だ。音響と照明の変化で時間の経過を表すなど、細部まで仕掛けがあり楽しめる。
※6月1日(月)より、感染防止対策を講じた上で施設利用を一部再開。詳細はHPで確認。