長い歴史、時代のすべてが現代の瀬戸焼の礎となった
瀬戸の町中には、通称“瀬戸キャニオン”と呼ばれる広大な陶土珪砂採掘場がある。ちょっとした高台から見渡せば、必ずや露出した岩肌や地層が目に入るほど、それは身近な存在だ。これこそが瀬戸焼がこの地に起こり、長きにわたり栄え続けてきた理由である。
瀬戸に初めて製陶を伝えたのは、鎌倉時代の頃、加藤四郎左衛門景正(通称、藤四郎)といわれる。藤四郎は道元禅師に従って宋で陶法を習得、帰国後の仁治3年(1242)に全国を探し歩いた末に、瀬戸で作陶に適した良土と出会い、この地に開窯したと伝えられている。
この良土こそが現在の瀬戸キャニオンを成す瀬戸群層で、木節粘土や蛙目粘土といった良質な土を用い、瀬戸焼の「陶器」の礎が築き上げられたと推測される。ちなみに藤四郎の家譜は一子相伝で今なお受け継がれている。
一方、瀬戸焼は「磁器」でも有名である。一産地で陶器と磁器の両方を作るのは稀であり、これは他産地とは異なる瀬戸焼の特徴でもある。
瀬戸の磁器は、江戸後期の享和年間(1801~1804)に生産が始まった。当時、陶器の窯屋は長男のみしか営めなかったが、後発の磁器は次男以下でも開業を許されたため転業が相次ぎ、陶器生産をしのぐほどになったという。
この磁器生産の立役者は、九州・肥前に修業に出て、その製法を瀬戸に持ち帰った加藤民吉。これを機に瀬戸の磁器は飛躍的に向上し、良質な原料土を生かした透けるように白い素地に、呉須(藍色の顔料)で南画のように優美に絵付した作風は、有田や九谷とは一線を画す独特の趣として珍重された。
こうして陶祖と磁祖の二人の開祖をもつ瀬戸焼だが、その柔軟で間口の広い技術を武器に、鎖国が解かれるとすぐに海外への輸出を開始し、その染付作風はフランスのアール・ヌーヴォー様式に影響を与えたほど人々の印象に残ったという。
さらに時代が進み、戦時下には、今度は金属の代用品として、鍋釜から、手榴弾などの軍用品、陶貨に至るまで焼物で製造する任を全うする。瀬戸はこの経験をも生かしてさらに広範な技術を培い、連綿と続く現代の陶磁器生産につなげている。
戦後は再び輸出が盛んになり、昭和20年代には瀬戸の窯業は500社以上と最盛期を迎える。食器だけでなく、陶磁器製の人形や置物(ノベルティ)などの精緻を究めた技巧は、欧米をしのぎ世界一と賞されるほどになったのである。
陶祖、加藤四郎左衛門景正を祀る
陶彦神社(すえひこじんじゃ)
瀬戸焼の開祖といわれる加藤四郎左衛門景正を祀る神社で、文政7年(1824)に瀬戸の産土神様と崇められる深川神社の境内に建立。ここで「神社より巽の方角、祖母懐の地に、良土がある」と神のお告げを受けたことにより、最上の陶土を発見。この土で陶器を作るために、瀬戸の地に窯を開いたと伝えられている。毎年4月の第3日曜日に行われる神事のせと陶祖まつりには全国から多くの人が集まる。町なかにあるので、散策の折に立ち寄りたい。
住所:愛知県瀬戸市深川町11
アクセス:名鉄「尾張瀬戸駅」より徒歩8分
※2013年取材
文/横山せつ子 写真/天方晴子