和釘、鎚起銅器の技から金属洋食器への歩み

信濃川を挟んで東西に分かれる三条市と燕市は、世界有数の金属産業の町「TSUBAMESANJO」として発展しつつも、実はそれぞれの“ものづくり”の歴史と伝統、製造品等は大きく異なっている。

産業としてのルーツは、一説では江戸初期に和釘が作られたことに端を発するが、時代の流れとともに燕は銅を材料とする鎚起銅器、三条は鍛冶の技を駆使した利器工匠具へと道を切り拓いていくことになる。

まずは弥彦山を背に町が広がる燕からその歴史と変遷を紐解いてみよう。寛永年間(1624~44)、たびたび起こる信濃川の水害に苦しんでいた農民のために、この地を治める代官・大谷清兵衛が、江戸から和釘職人を呼び寄せて技術を広めたのが和釘生産の始まりとされている。

燕の町の西側にすそ野を広げる標高634mの弥彦山。ふもとには弥彦神社が鎮座し山は全体が聖域。

その後の元禄年間(1688~1704)からは、弥彦山の麓の間瀬銅山で良質の銅を採掘。和釘に次いで銅器づくりも盛んになっていった。そして、江戸後期、仙台から移住してきた銅器職人から伝えられたのが〝鎚起銅器〟の技術だった。

鎚起銅器とは銅板を金鎚などで打ち起こしながら形を作り上げる手法。叩いて伸ばすのではなく、叩きながら縮めていく独特の技で、燕の高度なものづくりの原点だといえるものだ。その比類なき技は伝統工芸品として今も息づき、国内唯一の鎚起銅器生産地を誇っている。

明治期に入って洋釘が輸入されるようになると、和釘生産は衰退。和釘職人の多くは、鑢、煙管、矢立づくりなどに転業するが、再び時の流れの中でこれらの生産も憂き目にあう。しかし、培われた金工技術はその後の金属洋食器づくりに生かされることになるのである。

「燕市産業史料館」に展示している昔の煙管(きせる)の製作プロセス。

燕の洋食器産業は、明治44年(1911)に東京・銀座の貿易商から受注したカトラリー生産がその第一歩。

さらに第一次世界大戦の頃には、欧州の金属工場が軍需生産品へ転換したため、スプーンやフォークなどの大量注文が燕に舞い込んできた。これが燕にとっての一大転機となり、動力機械が設置されて大量生産が可能になると、飛躍的な発展を遂げていった。

その後は第二次世界大戦やアメリカとの貿易摩擦など数々の荒波にもまれながらも、ステンレス製品、オリジナルデザインなど革新的な開発を重ね、燕の金属加工産業は揺るぎないスタンスを確立してきたのである。

新しい製品にも息づく鍛冶の伝統と深い精神性

一方、信濃川の東側、支流の五十嵐川が流れ込む合流地点にあるのが三条だ。こちらも江戸時代初期の和釘生産の奨励から産業の歴史が始まるが、実は鉄を使うものづくりの起源はさらに古い。

古代の遺跡からはすでに鉄斧が発見されているし、室町時代には大崎鋳物師と呼ばれる技術集団が、八幡宮の鰐口や会津法用寺の梵鐘などを生産していた。市内の下町遺跡からは、鉄精錬跡や鉄鍋の鋳型などが出土している。

刀、刃物の材料として使われる玉鋼(はがね)。砂鉄を原料とし、たたら吹きによって造られる和鋼。(三条鍛冶道場所蔵)

江戸時代に和釘生産が始まった後は、会津地方より鉈などの打刃物づくりが伝わる。熱した鉄を繰り返し打ち叩いて鍛え上げ、伸ばして錬り上げるという絶妙な力加減と精神性を高める鍛冶の技法は、包丁や小刀、大工道具などさまざまな道具を生み出した。目指したのは、何より“切れ味”だった。

和釘の衰退は燕と同様に明治期に訪れるが、三条では従来の打刃物とともに、生活様式の変化に合わせた作業工具類などの分野にも参入。現代においても三条鍛冶としての伝統を受け継ぐ多様な製品づくりに力を注いでいる。

鎚起銅器の製造工程。金鎚で打ち起こしながら形成していく見事な技。

※2013年取材

文/岩谷雪美 写真/佐藤佳穂