【プロフィール】 俳優・歌手 吉田栄作
1969年神奈川県生まれ。1988年に東映映画『ガラスの中の少女』でスクリーンデビュー。以降、話題のトレンディドラマに多数出演し、1991年の『もう誰も愛さない』主演で人気を不動のものにする。また歌手としては1989年の「どうにかなるさ」以降、シングル18枚、アルバム11枚を発表。1995~1997年にすべての活動を休止してアメリカに渡ったことも話題になった。2019年9月にアルバム『We Only Live Once』を発表。2020年1~2月は森新太郎演出の舞台『メアリ・スチュアート』に出演する。
努力の上で得た人気俳優への道。その立場にいつつ悩みを深めていた時代
『男の隠れ家』ですかー。いいですねぇ。そもそも男って隠れ家が好きですよね。小さい頃から公園の端っことか橋の下とかに集まって、なんか基地みたいの作ったりしてね。マンガとか自慢の宝物とか持ち寄って。学校の中にもそんな場所があったな。高校時代に友達とバンドを組んだのも、仲間と集まるうちのことです。楽しかったですねぇ。今も音楽は僕の原点だと思います。
映像の俳優になろうと決めたのは16歳の時でした。僕は湘南の海から遠くない町で育ったんですが、当時の彼女と新宿に行き、新宿センタービルの50階あたりのカフェに入ったんです。で、なんとなく地上を見て、人間ってなんて小さいんだろうと思ったんですね。僕も地上に降りればその大きさ。でも一人ひとりにさまざまな思いがあり、未来がある。それなら何か、自分が生きた証を残したい。そして帰り道の小田急線内でふいに「俳優になろう!」と。翌日には小学5年から続けていたバスケットボール部も辞めていました。
なぜ俳優だったのかな。よくわからないんですよ。家族が皆、テレビのドラマや映画が好きだったし、兄とは近所の映画館にもよく行っていました。でも、自分がそこに立とうとまでは思っていませんでした。なぜなのか高2のその瞬間、身体にビッと稲妻が走ったんです。
1988年に「ナイスガイ・コンテスト・イン・ジャパン」でグランプリになってからは順調だったと言えます。トレンディドラマの波に乗ることもできました。トレンディ御三家と言われたのも懐かしいことです。そのために捨てなければならないものも多かったのは事実。そういう状況になりたくて努力を重ねたのですし、何を失っても、そういう存在になろうと決めていましたから。もちろん達成感もありました。けれどふと我に返り、何か違ってないか?と。偏西風に乗ったようにそこまで来てしまい、自分はもっと勉強するべきではないか、もっと本来の自分らしくしていいのではないかと感じはじめていきました。
一人ぼっちのロサンゼルス暮らしで自分自身の目的を見つめ直す日々
「まずは1回休もう」と心に決めてから、アメリカに行くまでには4年かかりました。決まった仕事もありましたし、お世話になった方々に理解していただくためにも、いきなり行動に移すわけにはいきません。実は『もう誰も愛さない』主演の時から考えていました。最終回で僕は死ぬんですが、最後のセリフは監督のご厚意を受けて僕が提案したものなんですよ。「どこに行こうか、これから」というものです。しかも死ぬ場所は新宿副都心の高層ビルの下。高2で俳優になろうと決めたその場所なんです。
それから第二章の自分に向けて、仕事をしながら密かに準備を続けていました。英語力をつけるため駅前留学的なスクールにも通いましたし、一人で海外で暮らすのに備えてギターを本格的に習うほか空手道場にも行きました。なぜロサンゼルスだったかですか? 休めて、演技の勉強ができて、やがて気持ちが整ったら俳優として新しい挑戦もできる場所を考えたんです。加えて必須だったのが大好きな海があるところ。そんな土地は、世界中でロサンゼルスしかありません。芸能活動を休止してようやくアメリカに渡った時は、マスコミにもいろいろ書かれました。突然のことと思われたのも、それまで誰にも言わずに計画していたからでしょう。けれど、それをしなければ今、僕がここに座っていることはないと思います。
ロサンゼルスでは僕は一人のリーガルエイリアンに過ぎません。まずは自分の隠れ家を作ることから始めました。アパートを借り、車や家具を整えて。友達もいないので毎日海に行って波と空を眺めながらコーヒーを飲んでいました。そこで新しい曲もできましたよ。そのうち仲間もでき、バンド活動やボイストレーニング、オーディションへの挑戦も始めるようになって。オーディションでは何度も何度も落ちましたが、やがて2本の映画に出演し、現地の俳優組合にも所属しました。ほんの小さなキーホルダーくらいの土産に過ぎないかもしれませんが、今の僕を作る上ではとても大切な時間でした。
そのままアメリカで生きていってもいいかと考えていました。けれど渡米して3年目、ふと、日本でやり残したことがあるのではないかと思い始めた頃、NHK大河ドラマ『元禄繚乱』の岡島忠嗣役のオファーをいただきました。僕がそれまでやっていなかったことのひとつが時代劇です。日本を離れて長い僕に声をかけてくださった。その偶然のタイミングには本当に驚きましたね。今こそ帰るべき時なのだと思いました。
大好きな音楽は続けてきた。多くの曲が一人の時間に生まれた
音楽はずっと続けています。高校時代のバンドは卒業と同時に解散しましたが、自分自身はやめる理由はないですから。俳優は自分自身が選んだ仕事ですが、ギターを弾いて歌うことは、本当に昔から続けてきた当たり前の行動。歌手デビュー30周年のアルバムでは、8曲中デビュー曲の「どうにかなるさ」以外7曲の作詞作曲をしています。今はミニライブやインストアライブで全国各地を回っています。
アメリカに渡る前に作った曲もありますし、現地で作った曲や最近の曲もあります。海とか旅とか、その時々の自分の思いが曲になっています。歌詞を作るのは好きなんですよ。小学生の頃から詩を書いていましたから。あぁアルバムにある「砂漠に車を止めて」の歌詞ですか? “僕は海が好きでいつも海を見つめていたけれど、まさかあの時アメリカを見ているなんて思わなかった” “どこか知らない町で自分を見つめ直したくなる”――。そうですね。僕は本当に子どもの頃から海を見て育ちました。サーフィンしたり、海辺で仲間と将来への不安などシリアスに語り合ったり。僕は役者になろうと思うって皆に話したのも海辺だったな。
本当にね、まさかアメリカで一人暮らしするとは若い当時は考えてもいませんでしたよ。自分が決めたこととはいえ、誰の助けもない一人の日々はさみしくて、遠い海の向こうの日本を思う日々も続きました。けれど、その行動をしていなかった自分ではなく、した自分だからこそ今、ここにいるのだと思います。僕はよく“だからここに座っている”という言葉を使います。自分自身で積み重ねてきたこと、そして多くの方々の助けがあってこそ、こうして今もオファーをいただける。俳優としてここにいられるのだと感じます。
年に一度ロスに。仕事は削っても、それが僕の“隠れ家”
僕は自分自身のアイデンティティを“映像の俳優”と考えてきました。だから舞台は本当は、説得されて出る、という感じだったんです。でもこの20年近く出演させていただく中、非常に新鮮な思いを感じています。舞台はとにかく続けていないと感覚が鈍ります。常に挑戦する中でスキルアップしていくものだと実感します。やはりとても面白いですね。いつも、それまでの自分を乗り越えようという感覚で挑戦させていただいています。
このたび『メアリ・スチュアート』で演じるレスター伯は、けっこう複雑な内面を持つ役です。エリザベスとメアリという2人への愛と共に野望や保身に揺れる。この男の心はずっと、切迫した現実とは別のところにあります。その行動は無様と言ってもいい。そんな人間の思いをどう解釈するか、演出の森さんと話しながら深めています。演じるのは僕自身とても楽しみなんですよ。
よく“つらい山を越えたら別の景色がある”って言いますよね。でも僕はそうは思わない。景色は変わりません。自分自身の成長があるだけです。だから僕は楽勝な顔をして「別にきつくなかったよ」くらいのことを言いたい。それが僕のキャラなのかな。それも演じているともいえるのかな。
今もロサンゼルスには毎年行っています。3年の滞在以来、親しい仲間も増えました。仕事をセーブして、必ず行けるように調整しているんです。行けば短くても2週間、長く取れれば1か月くらいでしょうか。海で遊び、親しんだ町を歩き、仲間達とライブも楽しみます。新しい曲もそんな時間の中で生まれます。
そうだね。それが僕の“隠れ家”かな。青いオーシャンと乾いた風の中に身を置き、それまでの自分を洗い流して、またここに帰ってこようという気持ちを作れる場所です。子どもの頃の隠れ家と違って、決して壊される場所ではないから。うん。カリフォルニア ロサンゼルスはとても大切な場所。海があって、その彼方の日本を思いながら、自分を取り戻す場所なんだな。
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<舞台情報>
世田谷パブリックシアター
「メアリ・スチュアート」2020年1月27日(月)~2月16日(日)
https://setagaya-pt.jp/performances/marystuart20200102.html
作:フリードリヒ・シラー
上演台本:スティーブン・スペンダー
翻訳:安西徹雄
演出:森新太郎
出演:長谷川京子、シルビア・グラブ、三浦涼介、吉田栄作/山本 亨、青山達三、青山伊津美、黒田大輔、星智也、池下重大、冨永竜、玲央バルトナー、鈴木崇乃、金松彩夏/鷲尾真知子、山崎一、藤木孝
文/秋川ゆか 撮影/島崎信一 ヘアメイク/鎌田直樹
衣装/ユナイテッドアローズ