■自然へ身を投じる野天風呂 山中で4つの源泉を楽しむ
(※その他の写真は【関連画像】を参照)
※この記事は2024年10月号に掲載されたものです。

年季の入った飾らない木造の建物が、なんとも良い風情を漂わせている。那須連山に抱かれた煙草屋旅館は「山小屋」を名乗る温泉宿。
標高約1460mにあり、歩いてしかたどり着くことができない隠れ湯だ。携帯の電波は届かず、電気は自家発電。飲み水には沢の水を消毒して利用している。開業は明治35年(1902)頃。黒磯駅前にあった旅館がこの地に支店を出したのだという。

玄関に衛星電話が置かれ、ホワイトボードには天気予報が書かれる。玄関脇に濡れた装備を干すための乾燥室があるのが山の宿らしい。平日のこの日の宿泊者は、8グループの23人。部屋番号を伝えられ、本館2階の客室へ向かう。
夕方まで明かりの灯らない館内は昼でもところどころ薄暗く、それがまた味わいを生む。廊下を歩けば、各部屋からは過酷だった過去の登山自慢や明日のコースを相談する会話が漏れ聞こえてくる。
割り当てられた6畳間は、隣とふすま1枚で隔てられた鍵のない部屋で、親戚の家に来たような親しみやすさがある。室内は清潔に保たれ、窓には山並みが映る。荷を解いて、登山の汗を流しに温泉へ向かう。煙草屋旅館には4つの源泉と3つの風呂があるが、目玉はなんといっても「野天風呂」だ。

玄関前の桶から沢の水で冷やされた缶ビールを手に取りサンダル履きで屋外の湯へ。かけ湯をして薄く白濁した温泉に体を沈めると、湯が肌に柔らかい。ビールを片手に流石山や三倉山、大倉山の稜線をぼんやりと眺めて過ごした。
残る2つの湯にも入っておこう。木の湯船の「共同浴場」は、湯治客が好んで入る内湯だ。小さな岩風呂の「あかゆ」は、浴室に鉄の香りが充満する。湯の鉄分がこびりつき、湯船の縁がブロンズ色をしている。

早寝をして早朝に発つことが基本の山の宿は、チェックインが午後1時からと早いのが特徴だ。風呂から上がっても、部屋でくつろいだり周辺を散歩したりと、ゆっくりとした時間を過ごすことができる。
宿泊客たちがメッセージを書き残していく「山ノート」を何とは無しにめくっていると、目に留まった一文に大いに共感してしまう。「2回目の煙草屋。やはりしみじみ、とっても心が落ち着くのである」。

■山の宿で生まれる交流 自然の中で人生を見つめる
夕方5時15分。トーン、トントントン──。夕食を知らせる太鼓の音が館内に響くと、大広間に宿泊客が集まり出す。一人ひとりに用意されたお膳には、敷島牛の陶板焼きに、漁協が作るイワナの甘露煮、栃木県産のコシヒカリなど地元の食材が並ぶ。

麓の町から食材を荷揚げするのは人力だ。重い時は30㎏もある荷物をスタッフが背負って山越えする。ありがたく料理をいただいていると、賑やかな隣のグループに声をかけられた。12年ほど前に登山の講習会で出会ってから、毎月皆で山を巡っているそうだ。持参したという紙パックの焼酎を、気前よくコップに注いでもらう。山男に山女は、気のいい人ばかりだ。
夜も更けた頃、館主の野本芳彰さんに話を聞かせてもらう。「日本酒でも飲みながら話しませんか。山で遠慮していちゃダメですよ」と、野本さんは屈託のない笑顔を見せる。


高校を卒業してこの宿で10年ほど働いた後も、細々と縁をつないでいたという。後継者不足から宿を売りに出す話が持ち上がった7年前に、ならばと館主に手を挙げた。
「自分にしかできないと思いましたよ。この宿の肝は温泉と水の管理。湯温の調整や水のやりくりには細かいコツがいるんです」

山の宿の魅力を尋ねると「人との出会い」だと答える。
「山という共通の話題があるから、宿泊者同士の垣根が低いんですよね。携帯が使えないので自然と会話も増えて、人と人との時間が過ごせると思うんです」

図書室やテラスなど、館内には多くの共有スペースがある。滞在中、仕事を辞めて夫とともにリフレッシュに来た若い女性や、間もなく定年を迎えるという男性と話をした。
自然に囲まれた宿は、人生の節目を見つめに訪れるのにも、ちょうどいい場所なのかもしれない。携帯を充電しないのはいつぶりだろう。そんなことを考えながら夜9時過ぎに眠りについた。





三斗小屋温泉 煙草屋旅館
栃木県那須塩原市板室910
TEL/090-8589-2048
営業期間/4月中旬~11月下旬
チェックイン・アウト/13:00・8:30
料金/1泊2食付1万2500円〜
文/中村さやか 撮影/遠藤 純
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