【プロフィール】 波戸 康広 (はと やすひろ)
1976年、兵庫県生まれ。7歳でサッカーを始め、県内の強豪・滝川二高に進学。フォワードとして活躍し、高3時に全国高校選手権に出場。卒業後、横浜フリューゲルスに入団。ウイングバックにポジションを移し、プロ4年目の1998年から出場機会を増やしていく。チーム消滅に伴い、99年から横浜F・マリノスでプレー。サイドバック、ストッパーとポジションの幅を広げ、2001年に日本代表に初選出。通算15キャップを誇る。2004年から柏レイソル、2006年から大宮アルディージャでプレー。2010年、F・マリノスに復帰して11年シーズン限りで引退。J1通算358試合に出場。12年からF・マリノスのアンバサダーを務めている。日本将棋連盟将棋親善大使。

サッカーと将棋は、凄くマッチングがいい

波戸康広氏 提供

サッカーと将棋って、あまり結びつかないように思われがちです。でも考えてみてください。サッカーはゴールを守って相手のゴールを奪い、将棋も王を守って相手の王を奪う。少年時代のころを振り返ってみると、サッカーをやるうえで将棋がヒントになったことって案外多かったようにも思います。プロになってからも将棋は趣味の一つでした。試合の移動の際には、詰め将棋を良くやっていましたね。

F・マリノスのアンバサダー1年目に、サッカー好きで知られる振り飛車党の佐藤和俊七段と雑誌の企画で対談する機会がありました。佐藤七段との縁からいろいろとつながりができ、ある方と対局したときに「波戸さん初段くらいの力があるよ」と言われまして。再び将棋をちゃんとやるようになって初段の免状をいただき、14年からは将棋親善大使を務めることになったんです。当時、日本将棋連盟の非常勤理事だった元日本サッカー協会会長の川淵三郎さんと食事をする機会があり「キミがサッカー界で将棋を広めていくんだぞ」と言われて気を引き締めたことを覚えています。

東京・千駄ヶ谷にある将棋会館にも何度か足を運びました。棋士の方と食事の約束をした際に、その前に飛び込みで入って小学2、3年生の子にボコボコにされたこともあります。棋譜を見た棋士からアドバイスをもらうこともありましたよ。逆に「100点満点の30点ですね」と厳しく言われて、へこんでしまうこともありますが(笑)。

将棋好きとしては将棋会館というより将棋を指すことが「隠れ家」なのかもしれません。落ち着く時間だし、集中できる時間。今も将棋連盟公認の将棋アプリがあるので、時間があるときはスマホで1日3局ほどやりますかね。今は二段から初段に落ちて、何連勝かしないと二段に戻れないので実は踏ん張りどころなんです。

サッカー好きの棋士って実は多いんです。渡辺明王将もその一人。一緒にフットサルもする仲で、彼はランニングも欠かさないとか。サッカーと将棋は、凄くマッチングがいいと思うのでサッカーが好きな人はぜひ将棋を、将棋好きな人はぜひサッカーをやってほしいなというのが僕の願いです。

現役のころ、僕のポジションはサイドバックでした。駒に例えると飛車でしょうか。香車だと戻ってこれませんから(笑)。相手陣営に入っていったらパワーアップして相手の王を奪いに行く役割を担います。でも、今のF・マリノスのサイドバックは、桂馬と銀に近いかな。ゲームをつくる仕事になるので、アップダウンを旨とした僕とは役割も違いますね。

僕はプロになったのに全然、芽が出ない

現役時代で隠れ家というとあまりピンと来ないのですが、「家」で言うとプロになって寮生活を終えて一人暮らしを始めたころの苦しい思い出があります。そこが僕の大きな転機になったのかなと思っています。

兵庫・滝川二高を卒業した1995年、僕は横浜フリューゲルスに入団しました。僕はフォワードで入ったんですけど、ゲルト・エンゲルスさんから「センスがない」と失格の烙印を押されてサイドに回されました。1年目は少し試合に出ることができたのに、2年目は出場ゼロ。寮を出て一人暮らしを始めていたんですが、悶々とした生活を送っていましたね。

そんなときに1つ年下の弟が転がり込んできました。彼も滝川二高からプロを目指してヴィッセル神戸から入団の誘いが来ていました。ですが、父親に「康広もプロで活躍できてない。お前は大学に行ったらどうか」と言われて大学を受験して失敗。一度断っていた神戸に頼み込んで練習生になったけれど、契約には至らなかった。実家のある淡路島に戻っていた弟でしたが、いろんな悩みもあって横浜にやって来たのです。

僕は試合に出ていないし、稼いでいないので、2人で市場に出て食料を買って、うまくない料理をつくって2人で食べて……。弁当屋で働き出した弟は調理師免許を取って、料理もうまくなっていきましたけど。

兄弟仲は昔から良かったんです。父も母も4トントラックを運転して家の瓦を運搬する仕事をやっていて、小学校の低学年のころは「どうしてウチはお母さんが家にいなくて、学校行くときも送り出してくれないんだ」と思ったもんです。でも高学年になって、共働きじゃないと家計が厳しいんだと知って、2人で「我慢しようぜ」と。あるとき父親に「大学には行かせられない」と言われて、風呂で弟に「プロになるしかない」と誓ったという思い出もあります。

1本の電話から、意識が変わった

ある日、実家の母親に電話をしたとき、「多分、クビになる」と思わず弱音をこぼしてしまいました。すぐに思ったんです。俺、チキンやな、と。サッカーに対して真剣に取り組んでいるのか、心の底からそう言えるのか、と。

本当に、何やってんだと思いました。母親にグチをこぼす前に「ちゃんとやれや」と。あの電話から、僕は変わりました。チャンスが来る来ないにかかわらず、一日一日をサッカーにすべて捧げました。筋トレも、食事も、全部サッカーのために。そうしていくと「これでダメだったら仕方ない」という感覚になって、試合でチャンスをもらっても余計な力が自然に抜けて、ちょっとずついいプレーができるようになっていきました。

横浜フリューゲルスとしての最後の大会で初めて体験したこと

今でも忘れられないのがプロ4年目、横浜フリューゲルスの消滅です。親会社の経営難によって、横浜マリノスに吸収されることになりました。

最後の大会となった天皇杯、僕たちは優勝しました。

ここまでチームが一つになるという体験は初めてでした。サンパイオは「天皇杯は若手の就職活動の場にしたほうがいい」と言ってくれましたが、僕たち若手は「チャンスをください」とは言わなかった。なぜならこの大好きなメンバーと一日でも長く、サッカーをやりたいからです。それに優勝して注目されたら、別の企業が買い取ってくれる可能性もないとは言い切れませんからね。

僕は先発で起用してもらい、ありったけの力をぶつけました。終わりが近づいていくと自然と涙が出てくるんです。みんなもそうでした。22歳だった僕はチーム解散に伴い、本当はサンフレッチェ広島に行く予定でした。しかし天皇杯の僕のパフォーマンスを評価してオファーをくれたマリノスに行くことにしました。当時のマリノスはみんな日本代表クラス。ここでレギュラーを獲れれば、日本代表が見えてきます。試合に出られない可能性だって十分にあります。母が気づかせてくれたように、日々悔いなくやっていれば、もし試合に出られなくても納得がいくと思いました。それにフリューゲルスのFが、マリノスに入って「F・マリノス」となることが決まっていたので、フリューゲルスの魂を引き継いでいきたいという思いもありました。

僕はF・マリノスの一員となって、高いレベルで揉まれていくことで成長を実感することができました。幸運にも試合で起用してもらい、2001年になるとついにはトルシエジャパンに呼ばれるようになります。

一緒に住んでいた弟も、「やっぱりサッカーの世界で働きたい」とチャレンジ精神を全開にして、サッカースクール事業を手掛けるようになりました。今ではフットサルコートの経営もやっていて、頑張っています。

日韓ワールドカップの落選に、嫁さんは寝室で泣きじゃくっていた

波戸康広氏 インスタグラムより

僕は2002年の日韓ワールドカップ出場を目標にしましたが、残念ながら最後は生き残れませんでした。新聞紙上で「6、7割方濃厚」という記事も目にしたし、落選したときはかなりショックでした。嫁さんと一緒にメンバー発表のテレビを観ていたのに、放心状態からふと我に戻ったら嫁さんがリビングにいないんです。彼女は寝室で泣きじゃくっていました。そのとき心に誓ったんです。ワールドカップに行ったメンバーたちよりも絶対に長く第一線でサッカーをやり続けること、いつか生まれてくる子供たちがせめて小学生になるまではやるぞ、と。

F・マリノスに5年在籍して柏レイソル、大宮アルディージャと移籍して、2010年からは再びF・マリノスに戻ってきました。最後はこのクラブで引退したいという思いがありましたから。出番が少なくなった11年シーズン、双子の長男、長女が小学生になっていたこともあって引退を考えるようになりました。あの日心に誓ったことを達成できて、本当にうれしく思いました。

引退してからはチームに残り、クラブのアンバサダーという役割をいただいております。アンバサダーには「大使」などの意味がありますが、僕からしたら「何でも屋」。元々あったポジションではないので、社員やスタッフのみんなと一緒になってこの役割をつくり上げていった感じです。サッカー教室やイベント、育成のお手伝いやスポンサーさん回りのフォローなど多岐にわたっています。いろんな部署やいろんな役割を経験して、人脈もつくることができたし、物の見方も自分なりに出来てきました。これからも愛すべきこのクラブのために働くことができればと考えています。

波戸康広氏 インスタグラムより

今の僕の「隠れ家」と言えば、横浜・反町にある「Bar Bop(バー バップ)」ですね

マスターの「鶴ちゃん」とはゴルフで知り合い、その縁で通い始めてから5、6年になります。食事の付き合いから「もう一軒」というときに利用させてもらうこともありますが、仕事のことでちょっと考える時間が欲しいときにフラッと立ち寄ったりします。飲むのは決まってジャックダニエルかジェントルマンジャックをロックで。大きく丸い氷を入れてくれるので、ゆっくり味わいながら飲んでいます。

横浜はやっぱり海が近くていいですよね。淡路島で育ってきた僕としては、それだけで何だか落ち着きます。横浜の雰囲気自体が、何だか「隠れ家」という感じもします。

【店舗概要】
Bar Bop (バー バップ)
〒221-0825 神奈川県横浜市神奈川区反町2丁目14-1 マジョリティビル 3F
電話: 045-316-5959

文/二宮 寿朗
1972年愛媛県生まれ。日本大学卒業後、スポーツニッポン新聞社に入社し、格闘技、ラグビー、ボクシング、サッカーなどを担当。退社後、文藝春秋「Number」の編集者を経て独立。著書に「松田直樹を忘れない」(三栄)、「サッカー日本代表勝つ準備」(実業之日本社、共著)、「中村俊輔 サッカー覚書」(文藝春秋、共著)など。近著に「鉄人の思考法〜1980年生まれ戦い続けるアスリート」(集英社)。課金制スポーツサイト「SPOAL(スポール)」編集長。