ゴッホの《ひまわり》、ダ・ヴィンチの《岩窟の聖母》、一生に一度は見ておきたい作品が多数揃うLNG。3月から国立西洋美術館で開催される展覧会を前に、ひと足先にLNGのあるロンドンの街を訪れた——

市民による市民のための美術館、設立までの道のり

 ロンドン中心部、地下鉄のチャリング・クロス駅から歩いて3分ほどの距離にあるトラファルガー広場は、常に多くの人で賑わいをみせている。この広場の前に立つギリシャ神殿風の柱とドーム屋根が特徴的な建物がロンドン・ナショナル・ギャラリー(以下LNG)である。イギリス国内外から年間およそ600万人が訪れる国立の美術館で、大英博物館と並びイギリス国民が誇る文化施設の一つである。
 現在、LNGのコレクションおよそ2300点、そのうち約3分の2が個人の寄付によるものだ。もともとLNGは他のヨーロッパ諸国のような国立の美術館をつくろうと、イギリス政府がロシアの裕福な銀行家であり、美術品のコレクターであったジョン・ジュリアス・アンガースタイン(1735~1823)が所蔵していた38枚の作品(レンブラントやルーベンスなどの作品を含む)を購入したのがその始まりだ。

 1824年の設立当初、展示に適した場所が見つからなかったため、ロンドンのぺル・メル街にあったアンガースタインの邸宅に展示していた。当時、この邸宅は常に人であふれており、国立美術館としては規模があまりに小さかったため、市民には不評だったという。
 そして設立から14年を経た1838年、ようやくトラファルガー広場に面した現在の場所へと移転する。行政や商業の中心地であったウエスト・サイドと、貧困街や移民街が連なるイースト・エンドの両地からアクセスしやすいという理由で、この地が選ばれた。市民に開かれた美術館であるために――階級、職業にかかわらず、少しでも多くの人に見てもらいたいという創設への思いがそこにあるように思う。以来、180年以上もの長きにわたってこの地でロンドン市民に親しまれてきた。

 市民による市民のための美術館ともいわれるLNGは、一部の企画展を除いて無料で、ほぼすべての作品が常設展示されている。ダ・ヴィンチの《岩窟の聖母》、ファン・エイクの《アルノルフィニ夫妻の肖像》、ベラスケスの《ヴィーナスの化粧》、ターナーの《戦艦テメレール号》、ゴッホ《ひまわり》など、誰もが知る世界有数の名作が、ロンドンを訪れる人、そしてロンドン市民の目を日々楽しませている。

初来日を果たすフェルメール作品と、ゴッホの《ひまわり》

 青い壁紙の小さな部屋で、2つの作品はそれぞれの女性が向かい合うように並べられている。そして、作品と同じような、静かで穏やかな時間がそこに流れている。鑑賞者は時間をどこかにおき忘れてしまったかのように、作品に見入っている。
 オランダ・デルフト生まれの画家フェルメールの作品は世界にわずか30数点しか現存していない。LNGにはこのフェルメールの作品が2点ある。《ヴァージナルの前に立つ女性》と《ヴァージナルの前に座る若い女性》。2つの作品はカンヴァスのサイズが全く同じで、対で制作されたとも考えられている。
 この《ヴァージナルの前に座る若い女性》も初来日、日本での展覧会に出品される。2018年、東京・大阪で開催されたフェルメール展では、その高い人気ぶりが印象的だったが、再び日本にフェルメールがやって来るのがとても待ち遠しい。

 そして、LNGのアイコン的存在であり、この美術館で最も人気が高い作品がゴッホの《ひまわり》だろう。その人気を物語るかのように、《ひまわり》の前には常に人だかりが絶えない。国内外の観光客はいうまでもなく、スケッチブックを抱えた子どもたちや、なかにはスポーツウェアに身を包んだジョギング中と思しき男性もいたりする。
 おそらく《ひまわり》はロンドン市民にとっては、特別な作品なのだ。《ひまわり》の前に少しの時間佇んでいるだけでそのことがよくわかる。子どもから大人までたくさんの人々がこの絵の前を通り過ぎる。まるでよく見知った人に挨拶をするかのように、親しみを込めた目を向けて、そして作品を鑑賞する。
 《ひまわり》がLNGのコレクションに加わったのは1924年、美術館設立からちょうど100年が経った頃のこと。今日までロンドン以外へ貸し出されたのは2回、いずれもアムステルダムのファン・ゴッホ美術館への貸出しだ。そう考えると、今回の来日で長らくロンドンの地を遠く離れることが、ロンドン市民にとっても、この《ひまわり》にとっても初めてのことなのだと思うと改めて大変なことだと実感する。

コレクションを支える美術館の舞台裏と働く人々

 LNGのコレクションを修復・管理している修復部では、所蔵作品を中心に主に800年にわたって西洋絵画がどのように描かれてきたのかを調査している。今回、特別にその修復室を拝見することができた。
 LNGには数名の修復士が在籍しており、コレクションの修復に携わっている。彼らは主に所蔵作品のリタッチやクリーニングなどを行うが、時にはLNGのコレクション以外にもイギリス国内の地方美術館から作品の修復を依頼されることもあるようだ。


 LNGの修復士になるにはおよそ8~10年かかるという。それだけ長い時間をかけて修復士となっても、修復士としてまず最初に任されるのが、絵画作品の木枠を作る仕事だというから驚きだ。
「修復士としての学位だけでなく、職人的な気質が必要とされる上、絵画の修復への情熱と根気がなければ続けることはとても困難な仕事です」とNGの絵画保全・管理室室長ラリー・ケイスはいう。

 また、修復部では絵画修復だけではなく作品の海外への貸し出しの管理も行っている。展示する際の照明の強さ・質、展示室の温度や湿度、その他にも展示環境が安全かどうかなど作品に関するあらゆる条件について、貸し出し先の美術館と綿密な連携をとっている。

 ちょうど取材に訪れた時、日本での展覧会に出品されるサルヴァトル・ローザの《道を尋ねる旅人のいる風景》が旅支度を終えたばかりのようで、梱包された状態で立て掛けてあった。他館へ貸し出す際には、ニスの塗り直しやフレームに入れ直したりする作業が重要となってくるという。そういう細かい作業を頻繁に行うことで、リタッチの回数などを減らすことができるのだ。
「このような一連の作業を館内で完結して行える美術館はほとんどないと思います」とラリー氏は話す。LNGには絵画作品を管理するための素晴らしい環境が整っている。そして、そこで働く修復士たちの豊富な知識と経験があったからこそ、LNGのコレクションを今日まで守り続けることができたのだろう。取材を終えて展示室の作品を観ていたら、ふとこの一枚の絵がたくさんの人たちの支えがあってここに飾られているのだ思い、感慨深さを覚えた。

モネの愛した風景とLNGがある街ロンドン

 ロンドンの朝は早い。朝7時過ぎ、ようやく夜が明け始めたかという頃。街へ出ると、出勤途中なのだろう、先を急ぐ人たちが目の前を足早に通り過ぎていく。朝のラッシュでごった返すエンバンクメント駅を越えて近くの橋の上からテムズ川を望むと、右岸に修繕中のビッグベン(国会議事堂)、ウェストミンスター宮殿がうっすらと見えている。
 LNGの展示室に飾られていたモネの《ウェストミンスター橋》を見て、「そうだ、あの景色を見ておこう」とふと思ったのは前日のこと。翌朝、モネの描いた景色を求めて、少し早めにホテルを出た。

 1870年、30歳のモネは初めてロンドンの地を踏んだ。戦禍を逃れるためのわずか1年たらずの滞在、LNGの《ウェストミンスター橋》はちょうどこの頃に描かれた。当時のロンドンは、ヴィクトリア女王の治世の下、産業革命が行き渡り、まさに爛熟期を迎えていた。新しい建物が立ち並び、活気あふれる街がモネの創作欲をかき立てたのだろうか。モネはロンドンを去る時に、また戻ってくることを誓ったという。

 ロンドン。そこは新しさと古さが共存する街。モネが初めてロンドンを訪れた頃に建てられたビッグベンを見て、すぐ後ろを振りかえれば、近代的なビルがそこには立ち並ぶ。それでもモネが描いたあの絵と同じように、テムズ川は滔々と変わらずに流れている。モネが生きた時代の名残を感じられる。またいつか来たい、そう思わせる何かがある、LNGはそんな街で今日もたくさんの人々に美の感動を与えている。

【展覧会情報】
ロンドン・ナショナル・ギャラリー展

会期:3月3日(火)~6月14日(日)
会場:国立西洋美術館
住所:東京都台東区上野公園7-7
電話:03-5777-8600(ハローダイヤル)
開館時間:9時半~17時半(金・土は~20時。入館は閉館の30分前まで)
休館日:月(3月30日、5月4日は開館)
観覧料:一般1700円ほか
アクセス:JR「上野駅」公園口より徒歩1分
URL:artexhibition.jp/london2020/
巡回展:(大阪)7月7日(火)~10月18日(日)/国立国際美術館