JR横須賀線に乗り、大船駅を過ぎて東海道線の線路と別れると、車窓が一変する。見通しのきく風景から、緑に囲まれた低い切り立った崖が壁のように車窓に迫ってくる。北鎌倉駅前の平地の幅はわずか130m。トンネルを過ぎると木々の緑に囲まれた谷々の中に住宅が密集する鎌倉(神奈川県)のまちに入る。

保元元年(1156)、皇統を巡る争いは武士による合戦という首都京域内での戦闘によって決着した。保元の乱である。ここで動員された兵力は日本で武士と呼ばれた“武装した在地の領主層を出身とする者”であった。

皇位継承を巡る皇統内の争いは治承四年(1180)、平清盛を中心とした平氏政権に対する反乱となり、全国的な規模へと拡大した。その中心となったのが伊豆国北条に流刑となっていた源頼朝である。

彼は反乱軍を統率し、安徳天皇を戴く平氏を中心とした朝廷を京都から追い、京都に残った後白河上皇・後鳥羽天皇を中心とする政権と協調して官軍として平氏政権と戦い、これを滅ぼした。

のちに彼は正二位の公卿になり、右近衛大将(うこんえのだいしょう)、その後征夷大将軍となって鎌倉を政権所在地として武家政権を開いた。頼朝は平氏滅亡後の新しい世の中を「天下草創」と呼んでいる。

源頼朝は直轄軍を持たない将軍であった。以後の鎌倉将軍は御家人となった武士たちとの主従関係を前提とした上で、彼らの権利の保護とその権利の他者との調停のために存在するものであった。

主人である将軍は権威のみが求められ、その上に立って将軍の家の機関・役人が鎌倉将軍家の組織を運営した。これが鎌倉幕府と呼ばれるものである。将軍は源氏・藤原氏・皇族と家格は上昇したが、幕府の運営に当たった頼朝の外戚であった北条氏は大江広元(おおえのひろもと)などの公家の協力を得て執権となって政権を運営した。

鎌倉幕府滅亡後は東日本を支配下に置く室町幕府の機関として、鎌倉府が置かれた。幕府は小規模な武士団の連合によってできた政権だったため、鎌倉の土地開発は、鎌倉に土地を与えられた武士たちや、彼らの創建した寺社によってなされた。

彼らは谷戸(やと)と呼ばれる小さな谷ごとに、館や氏寺を建てた。鎌倉の谷戸は本来幅が10m位かそれに満たない幅であったが、それを幅数十mの谷へと掘り広げていったのである。

狭い尾根と急峻な崖に囲まれた谷戸地形はそれぞれが独立した領主である武士の時代をよく表す文化的景観である。開発領主とも称される武士たちの土地に対する開発意欲と執念には圧倒されるものがある。

二階堂にあった永福寺の跡。基壇などが復元公開されている。

鎌倉に創建された将軍家の寺院に永福寺(ようふくじ)がある。現在は廃寺となり、国指定史跡として発掘された遺構が整備されて公開されている。東を正面として池を配し、中心となる釈迦如来を本尊とする二階堂永福寺の両脇に薬師堂と阿弥陀堂を配した、三堂からなる南北126m余りの大伽藍である。

この寺は文治五年(1189)、源義経をかくまった奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝が、建久三年(1192)に義経・藤原泰衡をはじめ戦争で亡くなった数万の亡魂が来世に往生できるようにと創建したと伝えられている。

しかし、数万という数字を考えると、頼朝の父義朝と、後白河法皇らが始めた保元の乱以降のあらゆる戦乱を収めたことの記念として、また以後の平和を保証する施設として創建されたと考えるべきであり、一連の戦乱の終止と武家政権の樹立を示すモニュメントなのである。

復元された木製基壇はこの時期、永福寺の他には中尊寺と毛越寺にしか見つかっておらず、最新の天台密教の施設が写されたと考えてよいだろう。

モデルとなった中尊寺の二階大堂(大長寿院)は堂の棟の高さ五丈(約15.2m)、本尊の高さ三丈(約9.1m)と伝えている。永福寺二階堂は梁行80尺、桁行74尺、棟高の復元高は七丈余り(約22m)である。永福寺は鎌倉で最初に造られた大仏殿であった。

鎌倉の大仏は露座の大仏として有名である。「国宝銅造阿弥陀如来坐像」が正式名称で、創建以来の像様を伝えるという。

この大仏は建長四年(1252)に鋳造が始まったが、これを記した鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』には「釈迦如来」とある。鋳造以前、暦仁元年(1238)には「大仏堂」の建立が始められ、この大仏は周尺(中国の周時代の尺で、現在の約80%)で八丈の「木造阿弥陀如来坐像」であった。

この記事から現在の大仏は初めから「阿弥陀如来」として鋳造され、『吾妻鏡』の記事は誤りとする意見が出されていたが、現在は『吾妻鏡』の記事通りとする意見もある。

木造の阿弥陀如来大仏の頭が上げられたのは仏教公伝の西暦538年から700年目である。釈迦の涅槃後、現在、衆生の救済を担う阿弥陀の大仏が武家の都に造られた。東国への仏教公伝を記念しての造立であろう。

西暦1252年は日本で末法の世に入ったと考えられた永承七年(1052)から200年目である。末法の世は仏教の教えが廃れ、修行する者も悟る者もいなくなってしまう時代である。このような百年ごとの年は、現在でも記念事業が行われて初期の理想に立ち返ることが要求されるように、釈迦の教えに帰ることが要求され、釈迦像が鋳造されたものと考えられる。

鎌倉大仏は体内が拝観できる。入ってみると継ぎはぎだらけである。この継ぎはぎは「鋳からくり」と称され、精密な鋳造方法を反映しているとされているが、実際はほとんどが修理の跡である。

大仏を覆っていた大仏殿は発掘調査によって規模が判明し、梁行145尺・桁行140尺と復元されている。棟高は30ⅿ余り、今でいうと10階建のビル位の高さがあったと考えられる。西国から鎌倉に入った人々が鎌倉で最初に目にするのがこの巨大な大仏殿であった訳だ。さぞかし鎌倉は、仏によって守護された新しい都と感じられたであろう。

この大仏殿は少なくとも3回倒壊しているとされるが、仏体が被害を受けなかったと考えるほうがおかしい。そのたびに修理が行われたと推測される。ちなみに印相を表す手の部分は衣文が表された膝上に鋳継がれている。また発掘調査では、現・境内には木造大仏の時代の遺構は発見されていない。

鎌倉大仏。天災で大仏殿が失われ、室町末期に露座となった。

正応六年(1293)、死者二万人余りを出した大地震が鎌倉を襲った。この地震で寿福寺や建長寺など鎌倉の諸社寺は壊滅的な被害を受け、大仏殿は倒壊したと考えられている。

元寇以来、外国からの侵略戦争に苦悩していた鎌倉幕府は、こうした天災を為政者である自らの徳の欠如ととらえ、神仏の加護を求めて寺社の復興に務めた。

しかし嘉元三年(1305)・正和五年(1316)・元享三年(1323)にも大地震があり、またこの間に大火があるなど被害とともに政治不安も広がり、復興は進まなかった。幕府指導者たちは日蓮の予言した「日本国滅亡」の危機を肌で感じたはずだ。

日本国を守護しているのは伊勢の神と八幡の神である。そこで鎌倉大仏については過去仏である「釈迦」から鶴岡八幡宮の本地仏である「阿弥陀」に変更して日本国を守護することを願ったとも考えられる。

元徳二年(1330)、関東大仏の造営料を賄うための貿易船が中国に発遣された。この船は無事に帰ってきたようで、大仏は修理され、「阿弥陀」に変更されて大仏殿も鎌倉時代の終わりには完成していた。

しかしこの大仏殿も建武元年(1334)、滅亡した北条氏の残党が再起をかけた北条時行の乱(中先代の乱)の時、大嵐にあった北条氏の軍勢が雨宿りしていた時に大仏殿が崩れ、500人余りが圧死したという。天が北条氏を見放したと人々は感じたであろう。

この後、復興を担ったのは鎌倉を治めていた足利尊氏の弟直義と考えられる。後醍醐天皇の冥福を祈る天龍寺造営のための貿易船発遣についても実質的な担当者と考えられているから、それと合わせて鎌倉大仏再興のための荷が天龍寺船に積まれていたとしても不思議はない。

応安二(1369)年にはまた大仏殿が倒壊したという記事があり、大仏と大仏殿は復興したことがわかる。この時の復興は建長寺によって担われていたらしい。このことは享保二十一年(1736)に、建長寺塔頭から大仏の背中に空いている窓の銅製扉二枚が高徳院に寄付されていることからわかる。

しかし以後、大仏殿は再建されず、文明十八年(1486)、禅僧万里集九が鎌倉を訪れた時には露座であった。

明応四年(1495)と七年(1498)には鎌倉に地震津波が襲った記録がある。この時、明応四年の記事には「由井浜では海水が千度壇に至り、大仏殿の堂舎屋を破した」とあり、これを大仏殿が流されたと理解する学者がいたが、すでに露座であり、下馬四角まであった段葛に至った程度の洪水が大仏殿を破する訳もなく、現在は「大仏殿」は寺名と理解されている。幸い、津波で破壊されたと考えられる遺構群は海岸部でもまだ発見されていない。

岸壁を手掘りでくり抜いた寿福寺トンネル。

鎌倉は三方を山、一方を海に面する要害の地と言われる。鎌倉でこの緑に囲まれた狭い空間に居ると海に面していることを忘れてしまいがちになるが、元々鎌倉は海上交通の要所として政権に選ばれた地である。

近年二度もクジラの死骸が流れ着いたように、鎌倉の海は相模湾の一部とはいえ太平洋に面している。3世紀頃、畿内に成立した大和朝廷はその勢力を東日本へも拡大させたが、それを担った者の墓が4世紀後半頃、逗子市と葉山町の境に造られた100m級の前方後円墳長柄桜山古墳(国指定史跡)である。

この勢力は7世紀頃に鎌倉に拠点を移し、朝廷の直轄領とし、鎌倉を地域の中心として鎌倉郡を成立させた。それを証しとするのが鎌倉市立御成小学校校庭で発見された鎌倉郡衙(ぐんが)と推定される遺構である。

また海浜公園に隣接した地域では占いに用いた大量の鹿の骨(卜骨)や神祇官である「神主」の墨書のある須恵器が出土している。卜骨の出土量は対蝦夷の前進基地・多賀城(宮城県)に匹敵するという。

こうした卜骨は三浦半島から房総半島にかけての海岸にある遺跡から出土しており、香取・鹿島神社へとつながるが、鎌倉は海を媒介とした宗教世界でも重要な拠点となっていたことがわかる。

鎌倉の前浜には各地から年貢を積んだ船が到着した。これらの多くは小型船である。材木座の五所神社の祭礼で唄われる天王唄には、船で伊豆下田に買い出しに行く様子が唄われている。『吾妻鏡』には弘長三年(1263)には鎮西からの年貢を積んだ船61艘が伊豆沖で遭難した記事があり、海を介して鎌倉は日本各地、海外と繋がっていた。

これらの年貢を一時保管し、管理していたと考えられるのが、鎌倉の海岸地帯で発見される方形竪穴状遺構と呼ばれる地下倉である。これらは現在の由比ガ浜・材木座地区を中心に鎌倉駅付近まで集中して発見されている。

年貢は祖である米だけでなく、調としての各地の特産物もあったから、鎌倉の発掘調査で出土する各地の焼き物も、年貢としてもたらされて商品化したのかもしれない。古瀬戸や常滑・渥美といった尾張国の焼き物を管理する国の役所「御器所(ごきそ)」は、三浦氏の所領であったものを北条氏が受け継いでいた。

また、鎌倉にもたらされた各地の産品が鎌倉で加工され、再出荷されたことも考えられる。例えば船のバラストとしてもたらされたと思われる赤間(下関)の石は硯の原石であり、鎌倉で硯に加工されている。

また各地から届く漆も鎌倉で利用され、黒地に朱で文様を描いた漆絵の椀皿が大量に生産されている。そして草花文や鳥・波などの描画のほか、欠き落とし、スタンプ、蒔絵などの装飾も行われ、船で日本各地にもたらされたと考えられる。

鎌倉時代の築港遺構(人工島)、和賀江嶋。

鎌倉の周囲を巡る山を越えて、外界に通じる道が切通である。房総半島を中心とした地殻変動による断層が南北方向に発達した鎌倉は、低いが険しい山と深い谷が海岸平野を巡っているため、陸路で鎌倉に入るためにはこの尾根を越える必要がある。

主に切通という尾根を掘り割った道で、七切通といわれるが、京七口に倣って江戸時代に唱えられた言い方である。東から名越切通・朝夷奈切通・巨福呂坂・亀ヶ谷坂・化粧坂・大仏切通・極楽寺坂である。険しい道であったから、近代になっても切り下げが行われ、大きく旧状を失った極楽寺坂以外は国指定史跡に指定されている。

外界から鎌倉に通じる道はこのほか材木座の光明寺裏から逗子市小坪に抜ける小坪坂があり、三浦に抜ける古道として知られている。名越切通・朝夷奈切通・大仏切通は整備されて比較的歩き易く、軽い山歩きを兼ねた散策ルートとして人気が高い。これらの切通には鎌倉時代から戦国時代まで造られた「やぐら」と呼ばれる石窟がみられる。

「やぐら」は中国の石窟が源流とされ、鎌倉と中国南宋・元との文化交流を示す遺構で、寺院境内に多く存在するが、切通に面しても造られている。名越切通のまんだら堂やぐら群は、火山である大島や富士山といった霊地を臨む景勝地である。林の中から海を覗いてみるのも一興であろう。

「やぐら」が中国の石窟と違うのはそこに日本密教の粋が表現されていることである。壁面に仏菩薩の像やその種子(梵字)を刻み、あるいは仏像を彫りだしたものもある。

何よりも、そこに入れられている箱根の霊石・安山岩で作られた五輪塔は「大日如来」を表す。五輪塔の中や下に火葬骨を納めることによって大日如来と一体化し、救済されることを願った。「やぐら」は密集するのがひとつの特徴で、寺院境内の墓地によくみられるので訪れたら注目してみてほしい。

江戸に幕府が開かれると鎌倉は海産物など、江戸の消費物資の供給地のひとつになる。初鰹は鎌倉に揚がったものであり、「伊勢エビ」もかつては「鎌倉海老」であった。

また鎌倉は武士の新しい都〝江戸〟に対する〝古都〟となり、水戸光圀の命により『新編鎌倉志』が編纂されるなど、江戸のルーツ・江戸庶民の信仰のルーツとして注目されるようになった。そして歌舞伎の題材にされるなどして庶民にも周知され、参詣や物見遊山の場ともなったのである。

化粧坂。関東へ通じる重要な道の出入り口だった。

現代の鎌倉が成立する大きな契機になったのは、横須賀線の開通である。明治政府は軍港・横須賀に通じる鉄道の敷設を急いだが、明治二十二年(1889)に開通し、鎌倉駅ができた。

これと前後し、観光客の誘致のため大仏切通・巨福呂坂の切り下げ・ルート変更などの道路工事が行われ、釈迦堂のトンネルなども開削されて交通路の整備が図られた。

また、海水浴の効能が明治初期から宣伝されたため、鎌倉もそのひとつとして注目され、御用邸他貴族などの別荘が造られるとともに、軍都・横須賀に勤務する海軍将校の邸宅が多く建てられ、現代のまちの基礎が築かれていった。

関東大震災は多くの被害をもたらしたが、こうした人々によって復興され、多くの近代洋風・近代和風の建物が建てられた。幸い第二次世界大戦では爆撃を免れ、多くの良質の建物が残されている。

しかし、昭和三十年代後半には“昭和の鎌倉攻め”と称される宅地開発が盛んになり、鎌倉の山が大規模に造成された。

これに対し、昭和三十九年(1964)には鶴岡八幡宮裏山の宅地開発に反対して市民運動が起こり、「御谷騒動」とよばれる日本最初のトラスト運動が展開された。大佛次郎など鎌倉在住の文化人などを先頭としたこの運動は国民運動に発展し、古都の歴史的風土を守る運動として日本中に波及した。

これを契機として同四十一年(1966)には「古都における歴史的風土の保存に関する特別措置法」が議員立法として成立し、鎌倉を囲む丘陵と谷戸が寺院などとともに歴史的遺産を形成するものとして、保存されることとなった。

谷戸々々を歩く時、ブルドーザーの前に決死の覚悟で座り込み、「鎌倉」を守ってきた市民の姿を思い出してほしい。

【文/玉林美男(鎌倉市教育委員会・学芸員)】
1950年、神奈川県生まれ。専門は中世考古学・鎌倉史。1972年より鎌倉市教育委員会で発掘調査・史跡指定など文化財保護・世界遺産登録準備作業に従事。2016年6月より非常勤嘱託員(遺跡発掘調査研究員)。

写真/遠藤 純、島崎信一、金盛正樹