日本に南蛮文学を広めるきっかけをつくる
熊本県の南西部に浮かぶ天草下島。今でこそ緑に恵まれ、ミカンやポンカンの一大生産地として有名なのどかな島であるが、寛永14年(1637)には隠れキリシタンの里として、天草四郎率いる民衆と、時の領主が争った「天草島原の乱」の激戦地でもあった。
明治40年(1907)、そんな天草下島を目指して一カ月に及ぶ旅に出た男たちがいた。与謝野寛(後の鉄幹)と、当時大学生であった北原白秋、木下杢太郎、吉井勇、平野萬里の5人である。
彼らは旅の記録を「東京二十六新聞」で29回にわたって連載。これが後に「五人づれ」というペンネームで紀行文『五足の靴』としてまとめられた。
7月下旬、夜行列車で東京を離れた彼らは広島や福岡を経て、長崎の佐世保や平戸など九州各地を訪れた。そして8月上旬に天草下島の西部、隠れキリシタンの里である大江村へと辿り着いた。
その後、大江天主堂のフランス人宣教師・ガルニエ神父に出会った彼らは、「天草島原の乱」の後に村人全てが幕府より踏絵の「二度踏」を命じられた話など、キリシタンの苦難の歴史を聞いた。
異国文化に触れたことは彼らに大きな影響を与えた。北原白秋は2年後に、この旅の結晶とされる詩集『邪宗門』を発表。ほかのメンバーも文芸誌「明星」にそれぞれ詩や短歌などを寄稿した。こうしてメンバー各々が南蛮文学やキリシタンを広めるきっかけとなった。
現在、一行が旅した天草下島の下田温泉から下田南までの約3kmのルートは「文学遊歩道」として整備され、一行の旅のエピソードなどが掲示されている。また、大江村での5名の宿泊先「高砂屋」は、すでに営業はしていないが現存し、玄関の脇には記念碑が飾られている。
そのほか「天草ロザリオ館」には平野萬里の歌碑、「天草キリシタン館」には北原白秋の歌碑などがある。天草キリシタン館では、江戸時代初期に起こった一揆「天草島原の乱」に関する資料なども展示されている。