無数にある信玄の「隠し湯」は 本当なのか?

「なにもかも忘れて湯に浸かっていると、なにか生きるよろこびを感ずる」

新田次郎の小説『武田信玄』には、こんなフレーズが出てくる。それに象徴されるように「温泉好きの武将」といえば、まず真っ先に武田信玄を思い浮かべる人が多いのではなかろうか。

実際、彼の領国だった関東甲信地区には「信玄の隠し湯」と呼ばれる温泉地が無数に存在していて、それが観光事業にも一役買っている。その数、なんと20ヵ所以上。一方で「本当に信玄は、こんなにたくさん温泉に浸かったのか?」という疑問も湧いてくる。

実際に調べてみると案の定、信玄の事跡を記した記録のなかに、いま「隠し湯」と呼ばれている温泉地が登場することは、ほとんどない。ほとんどが伝承レベルのものであって、きちんとした史料に基づくものではないようだ。残念な限りだが、しょせんは伝承であり、突っ込むのも野暮というものかもしれないが……。

ただ、そんななかにあって、わずかに1ヶ所だけ例外があった。それがJR甲府駅より車やバスで10分程度のところに位置する「湯村温泉」(山梨県甲府市)だ。都市部に近く、わりと開けた街道沿いの住宅地に温泉宿が密集している。今の情景からはイメージしづらいが、平安時代には貴族たちの荘園「志摩庄」があった場所という。

甲府市街にある名湯「湯村温泉」

『甲陽軍鑑』に記された信玄の湯治記録とは?

あるとき、その一角に温泉が湧き出たので湯治客が集まってきて、いつからか「志摩の湯」とか「島の湯」と呼ばれ始める。そして戦国時代、この一帯を武田家が支配すると「志摩の湯」も支配下におさまり、信玄の父・武田信虎の時代には湯村山城も築かれた。

天文17年(1548年)、信玄は信濃国北部へ出陣し、有力豪族・村上義清と激突するが、多くの将兵を失って敗退(上田原の戦い)。宿老の板垣信方・甘利虎泰が討たれ、信玄自身も負傷する手痛い敗北だった。

この3年後の1551年にもこの村上に敗れ(砥石崩れ)、5年後に真田幸隆を味方につけ、ようやくリベンジを果たすのだが、それはともかく、武田家の事跡を記した軍記『甲陽軍鑑』には、先の敗戦の様子を綴った記述がある。

『甲陽軍鑑』(国立国会図書館蔵)

「味方も雑兵ともに、七百余り討死のなかに、名誉の侍大将板垣信形討死なり。晴信(信玄)公も、うす手を二ヶ所おはせられ候。三十日の間甲州島の湯にて御平癒なり」

信玄も「うす手を二ヶ所」、つまり敗戦のなかで身体に2つの傷を負い、甲州島の湯(湯村温泉)に行って、30日間の湯治を行なったのち、ようやく平癒したという。実にあっさりしているが、これだけが信玄の唯一といって良い湯治の記録。冒頭に紹介した新田次郎『武田信玄』のフレーズは、信玄がこの湯村温泉での湯治中する様子を綴ったものだ。

そのくだりには、「その(湯殿の)中に晴信がいることを知っている者はごく少数しかいなかった」(新田次郎『武田信玄』)ともある。戦乱の世で大将が湯治していることが分かれば騒ぎとなり、混乱を招く恐れがあった。信玄の湯治もこのようなお忍びで行なわれたとなれば、湯治の記録が残っていないのも仕方なしといえよう。

さて、そんな信玄湯治の記録がわずかに残る湯村温泉の奥まったところに、「弘法湯」という旅館がある。ここでは、一説に弘法大師(空海)が808年にこの地を訪れたときに発見したと伝わっている古い源泉が今も使われている。

湯村温泉の旅館「弘法湯」
「弘法湯」の内風呂

「弘法湯」は、こぢんまりした旅館で、浴室も小さいが、その湯の良さは本物だ。あまり癖のないピュアな源泉が湯船に絶え間なく注がれ、身体を芯まで温めてくれる。とても気持ちがいい。かつて信玄も当地に湯殿を設え、このようにして、じっくりを傷を癒したのかもしれない。

「弘法湯」の館内には、昔なつかしいファミコンを組み込んだテレビがあった。今でも100円玉を入れると遊ぶことができる。この他に娯楽的なものは一切ない素朴な旅館だが、それだけに落ち着いて寛げるし、実に居心地が良かった。

「弘法湯」館内に置かれたゲーム機

夕暮れどきの温泉街をぶらつく。近所の居酒屋で、甲府名物の「鳥もつ煮」を食した。甘辛いタレが、具材のひとつひとつに味がしみ込んでいて美味しい。これがビールや甲州ワインともよく合って、箸がどんどん進んでしまった。

甲府名物・鳥もつ煮を食した

むろん、この料理は信玄の時代からあったわけでも何でもなく、昭和になってからできたグルメである。信玄の時代の甲府名物としては「ほうとう」がよく話題になるが、あれも当時から本当に食べられていたのかどうか、確かなことは分からない。

上州の名湯「草津温泉」も重視していた信玄

さて信玄自身が「湯治した」とはっきり書いた記録は湯村温泉に限られるが、北関東や甲信地区の温泉地には、彼が間接的に関わり、その影響力を及ぼした痕跡はしっかりと存在する。そのひとつが草津温泉(群馬県吾妻郡)だ。

信玄と間接的にかかわった草津温泉

草津温泉の正確な起源は不明だが、15世紀には湯治場として知られ始め、信玄の時代には遠方からも湯治客が訪れるようになっていた。晩年、北関東(西上野)にも影響を勢力を伸ばしていた武田軍の将兵も、草津温泉を利用したことは想像に難くない。それを裏付けるように地元には、信玄が草津の豪族らに対して発給した書状が残っている(武田信玄より吾妻三原衆あて朱印状)。

その内容は「近辺の民の訴えにより、永禄10年(1567)6月1日から9月1日まで入湯を禁ずる」というものだ。負傷兵の温泉治療のために一般の湯治を禁止し、武田軍の将兵のために草津温泉を3ヵ月独占利用させたものといわれている。あるいは、将兵が何か不始末をして、信玄がそれを問題視して温泉の利用をやめさせたというようにも読める。

草津温泉の共同湯のひとつ「地蔵湯」

いずれにしても、信玄が自身の領内の温泉地に対し、強い影響力を及ぼしていたことはこの書状からも分かる。彼自身が草津を利用したかどうかは定かでないが、将兵を湯治させていたことも明らかだ。白旗源泉に代表される草津の湯は強酸性で、傷の治療にも確かな効果がある。

信玄より後の時代には、丹羽長秀・前田利家・大谷吉継といった名だたる戦国武将たちが草津へ湯治に訪れている。当時の人びとは、草津の効能の豊かさを肌で感じていただろうし、もちろん信玄もその重要性をよく理解していたのだろう。

草津温泉の湯畑のまわりには、草津を訪れた著名人の名が刻まれたプレートが並ぶ(伝承も含む)

これ以外にも史料に基づく「信玄ゆかりの温泉」が、まだいくつかある。別の機会が得られたら、改めてそれらを紹介したく思う。

(今回紹介した温泉&旅館)
・湯村温泉郷 https://www.yumura.com/
・弘法湯 http://www.koubouyu.com/
・草津温泉 https://www.kusatsu-onsen.ne.jp/

【文・写真/上永哲矢】
歴史著述家・紀行作家/温泉随筆家。神奈川県出身。日本全国および中国や台湾各地の史跡取材を精力的に行ない、各種雑誌・ウェブに連載を持つ。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)など。