前回の記事で紹介したとおり「万里の長城」を見終え、北京市街へと戻ってきてからの話。敢えてベタなところを楽しむ、男の海外ひとり旅、北京編。第2回ということで、続いて向かったのは「天安門」である。いったんホテルに荷物を置き、ドライバーと別れ、ひとり地下鉄を利用し、天安門東駅で降りた。すでに日はとっぷりと暮れていた。

「天安門」と聞けば、あの事件を思い出すが

天安門。その名を聞けば、私たち日本人は、現地で話題にするのはタブーとされている「天安門事件」(1989年)のことを思い出してしまうが、もともとは、この奥にある「紫禁城」を建てた明の永楽帝が、1417年に城の正門として造ったことに始まる歴史的な建物だ。

ちなみに、その事件が起きた「天安門広場」は、門とは道路を挟んだ向かい側に位置している。広場の中心に見える建物は、毛沢東のなきがらを安置する「毛主席紀念堂」だ。この時間には広場は閉鎖され、立ち入りができなくなっていた。

明代・清代に造られた門がその原型

さて、天安門は建築当時「承天門」と呼ばれたが、この門は明の滅亡時に焼かれ、清代のはじめに再建されて「天安門」と呼ばれるようになった。明・清の時代に始まったこの門は、中華民国を経て現在の中華人民共和国に機能が引き継がれた。1949年の建国式典で、毛沢東はこの門の上から建国宣言を発している。

清代の門は築320年を過ぎたころに取り壊され、現在は1970年に再建された門なので、建物時代にはさほどの価値があるわけではない。それでも、現地へ行ってみると、門前は大勢の観光客でごった返していた。

すでに紫禁城の入場時間はとうに過ぎ、門は閉じられている。正確にいえば閉じられてはいないのだが、その前のゲートが閉められ、あまり近づけない。にも関わらず、押し寄せる人が絶えないのだ。

おそらくは地元北京の住民は少なく、中国全土から来る観光客である。中国人にとって、この場所は日本に例えれば皇居と都庁を組み合わせたような、そんなところであろうか。

人々は、門をチラッと眺めては記念写真を撮って帰っていく。興味深いことに、中国人は一緒にきた家族や友人との記念撮影だけで済ませる人が多く、門自体の写真を撮る人はあまりいない。日本人と違って「モノ」を撮らない。これは、ほかの観光地でも同じである。ライトアップされた天安門は赤く輝いていて、たしかに記念撮影をしたくなる美しさがある。

門と観光客を隔てる通路には、守衛の警官が微動だにせず立っている。本当に訓練されているようで、ピクリともしない。天安門事件のような騒動がいつ起きるかもわからない。

いや、決してそんなことを起こさせはしない…という、毛沢東を絶対的英雄とする中国政府の覚悟のようなものを感じる。その周囲だけが緊張感に満ちているようだ。明や清の頃も、こうして衛兵が直立して眼を光らせていたに違いない。

繁華街で腹ごしらえ。散策した勢いで無茶な買いもの

少しばかりの緊張感を味わったら、急速に空腹感を覚えた。そのまま少し東へ歩いて、王府井(ワンフーチン)へ向かう。いわゆる繁華街であるが、かつては王府(皇族の屋敷)の井戸があったことに由来する地名で、20世紀以降に小規模な店や屋台が寄り集まる盛り場となった。

とにかく店の数が多い。串焼き、饅頭、炒め物、豆腐、菓子…。日本の中華街など比較にならぬぐらい、ありとあらゆる中華フードが集結しているのかと思える。手頃な店を見つけ、このような外に置かれたテーブルで、麺と焼き餃子と啤酒(ビール)で、ごく簡単な夕食を済ませた。

そのままぶらついて、骨董品街に入る。骨董品といっても千差万別、玉石混合で、これまた本当にいろいろなものが並んでいる。

勢いで、三国志の英雄・関羽(関公)の大きな掛け軸を購入してしまった。こういう時の判断の「麻痺」は怖い。筒状に丸めて箱に入れてもらったはいいが、スーツケースに入らず、以降は紐でくくりつけて移動する羽目になった。それでもまあ、店のおやじもいい人で、ちゃんと値段交渉もできたし、おそらく1万円程度だったか。納得のいく買い物ではあり、ほど良い記念品になった。

翌朝は、ホテルの朝食は食べず、近所をぶらついて粟(アワ)の粥と、小さな包子(パオズ=中華饅頭)を食した。中国人の朝食はこれが定番といえる取り合わせで、実にうまい。何より安い。これだけ食べても200~300円程度なのも嬉しく、中国旅行の楽しみのひとつである。

粥は粒が小さくてスープ状で胃腸にも優しい。包子もふっくらして、中身は肉であったり野菜であったり、店によっても違うが、なかなかに豊富である。相席したおじさんが食べていた、豆花(トウフア)という茶碗蒸しのようなものも美味い。

朝食後、北京市街を離れ、郊外にある涿(たく)県という町へ向かった。ここは『三国志』で有名な英雄、劉備(りゅうび)の出身地。同郷の張飛(ちょうひ)、流れ者の関羽(かんう)とともに挙兵した場所である。小説においては義兄弟の契りを結んだ「桃園の誓い」の舞台だ。

三国志の時代は明や清よりもはるかに古い2~3世紀、後漢の出来事。市内にそびえる劉備たちの銅像を眺め、永き中国の歴史に想いを馳せたところで締めくくることにしよう。

【文・写真/上永哲矢】
歴史著述家・紀行作家/温泉随筆家。神奈川県出身。日本全国および中国や台湾各地の史跡取材を精力的に行ない、各種雑誌・ウェブに連載を持つ。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『偉人たちの温泉通信簿』(秀和システム)など。