106788池島炭鉱跡|あなたが知らない謎の世界へ「地下迷宮ワンダーランド」

池島炭鉱跡|あなたが知らない謎の世界へ「地下迷宮ワンダーランド」

男の隠れ家編集部
編集部

我々は地上で生きている。だが、地上にのみ生かされているのではない。最新技術の結晶や、自然の神秘が地下に潜み、我々の生活はその上で成り立っている。

とくに国土の狭い日本では、古くから地下の空間や資源に人々は活路を見出してきた。地下を知ることで、世界の解像度が上がることだろう。さあ、地下迷宮の旅へ。

■約50年続いた炭鉱島が残す あの頃の輪郭と刻まれた記憶

西彼杵半島の沖合約7kmの場所に浮かぶ小島。高度経済成長期とともに発展を続けた。

長崎市西部、神浦港のフェリー乗り場。ここから五島灘を渡っておよそ15分。目的地は、かつて「最後の炭鉱島」と呼ばれた池島だ。

乗船してまもなく、船は沖へと滑り出す。まるで時間がゆっくりと流れるような静かな旅路である。船が進むにつれて水平線の先にぽつんと島影が見えてくる。

目を凝らすと、山の中腹を沿うように連なる建物群、突き出た塔、そして巨大なコンクリート構造物が浮かび上がってくる。その輪郭は、まるで炭鉱島の面影を今に伝えるかのように、どこか武骨で力強さを感じさせる。

神浦港から池島港までのフェリーは1日6本。
船上から島を見ると、斜面中腹には選炭工場があり、岩壁には貯炭場や積み込み施設も。

フェリーが池島港に到着すると、放送で『ふるさと』が流れてきた。「山は青き故郷 水は清き故郷」。確かに山は青葉が茂り美しいが、発電施設や選炭工場が見え、普通の山とは明らかに異なる雰囲気を醸す。

海は青く輝く。というか、あれ? 青黒い……?

「海底を削っているので、水深が深くて青黒く見えるんですよ」と教えてくれたのは、元炭鉱マンの池野剛さん。

「石炭を船に積まないといけないでしょ。一度に450tの石炭を積むから、船が大型になる。すると、水深が必要だから海底を削っているんです」と続ける。

池島は周囲約4km、面積約0.9㎢の小さな島。かつては漁村だったが、昭和27年(1952)に三井鉱山によって炭鉱開発が始まり、軍艦島と並んで長崎県のもう一つの主要な炭鉱として一躍、産業の最前線に躍り出た。

採炭が盛んだった頃の写真。
池島で生産された弱粘結性の石炭は質が良く、閉山されるまで日本の重要な原動力として使われた。

最盛期には7700人が暮らし、島内には映画館やパチンコ屋、スナックに商店街、学校、病院まであったという。海に浮かぶ「独立した炭鉱都市」である。

「活気が凄かった。朝の出勤時間になると、第二立坑の前に行列ができる。島のどこにいても誰かの声が聞こえてきてね」と懐かしそうに語る。「ここが、その第二立坑です。ここから坑内に入ります」。

■炭鉱施設

■炭鉱の現場を肌で感じ 暗闇に沈む坑道体験

ヘッドライトとヘルメットを装着し、いよいよ地下へ向かう坑道体験へ。トロッコ列車に乗り込む。がたん、がたんと軋む音とともに、車体は大きく揺れながらゆっくりと闇へ沈んでいく。

わずかな照明とヘッドライトが坑道を照らすだけだ。トロッコが進むにつれ、湿った空気と金属のにおいが立ち込め、足元の石がカラカラと転がる音が響く。

ガタガタと軋むトロッコで炭鉱跡地へ入る。かつての炭鉱マンもこの景色を見たのだろう。

「ここは今でこそ照明があるけど、昔は本当に真っ暗でしたよ。ヘッドライトが切れたら終わり。手探りでレールを探して、暗闇を歩くしかなかったんです」

そう話すのは元炭鉱マンの野村時定さんだ。炭鉱内は彼が案内してくれる。レールの所々に4つのスパイキが締めてあったという。

観光体験用に作られたトロッコ。
坑道を進む野村さん。

中央に一つと、その後ろの左右に3つのスパイキがあるため、矢印のように使える。緊急時はそのネジが示す方向へと歩き、地上へと出るのだそうだ。

トロッコが止まり坑内を歩くと、至る所にホースやパイプが張り巡らされていることに気がつく。

「これは、坑内換気とガス誘導のためのものです。坑内換気とは、作業員の呼吸に必要な酸素と、メタンガスの排出のために空気を循環させること。ガス誘導とは、空気と混ざると爆発する危険性のあるガスを坑外に誘導することです」

照明は限られ、ヘッドライトが煌々と闇の中を照らす。

メタンガスは、石炭が生成される際に発生し、無色無臭で空気よりも軽く上部に溜まる。そして、空気中に5~15%存在すると、爆発する可能性がある。

また、地下深くに行くほどガス量は増える。というのも、地上に近く、地圧が低い場所では、地質時代にすでにガスが放出しているのに対し、地圧の高い(地下深い)場所では、地層中で長時間ガスが封じ込められているのだ。

そのガスが空気と結び付くと、大爆発を起こす。それによる炭鉱内での不幸な事故は世界中で発生した。失われてしまった命も多い。

張り巡らされたパイプや現役を引退した産業機械の武骨さが美しい。

「痛ましい事故を発生させないために設備や監視体制を整え、安全に配慮していました。そのため、池島では大きな事故は発生しませんでした」と野村さん。

坑道内ではガス爆発を防ぐため、定期的なガスチェックが実施され、防塵マスクやガスマスクが標準装備。緊急時に地上から対応する安全衛生管理室も設けられ、避難経路や救急設備も徹底されていたため、安全な炭鉱のモデルとして知られていた。

「なかでも特徴的だったのは『マンベルト』という炭鉱マンを乗せて運ぶベルトコンベア。数百mに及ぶ坑道を歩いて移動するとそれだけで疲労が溜まり、事故のリスクも上がります。それを防ぐために導入された機械で、速度100m /分。当時としては画期的なシステムでした」

まっすぐ削るために、何本かの支柱を組み合わせて水平を計測して、坑道を掘っていた。

この安全性の高さは、池島が敗戦後に新たに開かれた炭鉱だということが要因の一つだ。

全国の炭鉱で発生した痛ましい事故やそれによって多くの炭鉱が閉山した歴史を受けて、安全性を軽視して炭鉱量にこだわる時代は終わり、安全であることに最大の価値を見出す時代に生まれた炭鉱だったからこそ、労使一体となって災害事故の防止・根絶に取り組んでいた。

「1970年から1990年にかけてほとんどの炭鉱が閉山していましたが、2001年まで池島炭鉱が続けられたのは、この姿勢にあると思います」と話す野村さん。いかに安全性に誇りを持っていたかがわかる。

⚫︎いつ閉山された?

九州で最後まで操業したが、平成13年(2001)11月に閉山。操業開始から閉山までの出炭量は4500万tにも及ぶという。閉山後、炭鉱技術海外移転事業が開始され、インドネシア、ベトナムなどからの海外研修生に技術を継承している。

⚫︎地下の構造を理解する「縦断図」

内部の様子を垂直方向から切り取った図。地表から地下の炭層や坑道などの設備が描かれ、炭鉱の構造を理解する上で重要な役割を果たしていた。炭鉱の設計、建設、採掘作業、安全管理など、さまざまな場面で活用されていたという。

■池島式が築いた炭鉱技術 機械と知恵の現場力

「池島は“技術の島”と呼ばれたほどのハイテク炭鉱でした。最先端の掘削技術を駆使していたんです。例えばこのドラムカッター」と、言ってスイッチを押す野村さん。

大きな音とともに、カッターの付いたドラムが猛スピードで回転する。この機械を採掘面に沿うように左右に移動させることで、石炭を切削していたという。

切り込み深さ約0.6mの切裁ドラムが取り付けられている。回転させながら上下に動かして採掘していたという。

炭鉱というとダイナマイトでの発破のイメージがあるが、池島炭鉱では機械採炭も盛んだった。

「もちろん、ダイナマイトと火花防止の〝水タンパ〟という込め物を入れて爆破するという方法を使うこともありましたが、時代が進むにつれて機械採炭が主流になりましたね」

ドラムカッターの次に登場したのが、ロードヘッダーという機械。切削チップが配列された半球形のドラムを回転させながらキャタピラによって自走する。ドラムは上下左右に振り、前後に伸縮可能なため、より効率的に切削ができた。

カッターの交換を体験。テコの原理で金具を外すとカッターが抜けるため、簡単に交換ができた。

人の力より、機械の力を信じていた時代だったかもしれない。そのため労働環境も、少しずつ良くなっていった。

切削技術と安全対策が一体となったこの運営方式は当時の炭鉱業界に革新をもたらした。池島はただ石炭を掘る場所ではなかった。そこには、未来の採掘を見据えた知恵と工夫が詰まっていたのだ。

事故や怪我に備えて設置されていた救急センターも見学できる。ここは負傷者の応急処置や一時保管所として使われていた場所だ。壁に残る手書きの注意書きや、当時の医療器具の一部がそのまま残されており、労働の厳しさが静かに伝わってくる。

地上へとつながる坑道。傾斜はわずか17度だが、目視では急に見える。

⚫︎救急センター

酸素のボンベ。緊急時はここからこの酸素を使いながら助けを待った。
外の安全衛生管理室につながる電話。
水筒のような形をした酸素ボンベ。
救急センターの前にあるエアダンパー。坑内の空気流量を調整する。

⚫︎ダイナマイト

着火の模擬体験。ダイヤルを回して着火をするのだそうだ。もちろん模造品だが緊張が走る。
ダイナマイトを紐で巻き上げる。

⚫︎現存している炭鉱はあるの?

北海道釧路市の「釧路コールマイン」が日本で唯一残っている現役の炭鉱だ。閉山した旧太平洋炭砿を縮小のうえ引き継ぎ、国の「産炭国石炭産業高度化事業」を受託して石炭の採掘している。

坑道は釧路市外から緩傾斜で太平洋下に続き、海底の約320m地下で最先端のドラムカッターとシールド枠を使用している。

■炭鉱島・池島が語る 日本の在りし日々と未来

地上へ戻り、島の外周を歩く。途中、かつての発電・造水施設を訪れる。池島は島内で発電も行っていた。火力発電所で得た電気を使い、海水を真水に変える造水装置まで備えていたというから驚く。一日に2650tの真水をつくっていたのだそう。

「一つの島で、すべてがまかなえていた。まるで独立国家みたいでしょう」と話すのは池野さん。

ボタと呼ばれる坑道掘削や選炭によって生じた捨石を集積していた場所。今では美しい花が咲く。

さらに足を延ばして、選炭工場の跡地やスナックが軒を連ねていた中央通り跡へ。猫が一匹、静かに店の前を横切っていった。廃墟ばかりが広がるかと思えば、今も生活の気配が残る一角もある。

洗濯物が干されたベランダ、置かれた自転車、ゴミ置き場。人の暮らしの名残が、ぽつりぽつりと顔を出す。現在も、元炭鉱マンやその家族が100人ほど暮らしているという。

「ほとんどが年金暮らしです。今、池島のアパートは比較的安く住めるし、ここには思い出もありますから」。

池島での生活は、ただ働くだけの毎日ではなかった。人々はこの小さな島の中で、暮らしを彩るさまざまな施設や営みを築いていた。炭鉱マンたちは仕事が終わると、共同浴場で汚れを落としてひと息つく。

アパートの外観。鉄筋コンクリート造りで比較的新しい建物だ。

湯船に浸かりながら語られる今日の出来事や、笑い声が響くひと時は、彼らにとって欠かせない日常だった。食堂では、ボリューム満点の炭鉱定食が人気で、肉じゃがや揚げたての魚のフライを頬張る炭鉱マンの姿が見られたという。

娯楽面でも、映画館では週に数回の上映があり、封切り作品が届くたびに列ができたそうだ。子どもの数も多かった。「長崎市立池島小中学校」には約1700人の児童が通い、道を歩けば子どもたちの笑い声が聞こえてきた。

そんな島も、閉山を境に大きく様変わりする。平成13年(2001)以降、人口は急激に減り、多くの施設は使われなくなった。役割を終えた機械は海風にさらされ、朽ちていく。

池野さんの目に、今の池島はどう映っているのだろう。“廃墟の島”などといわれ、あの頃過ごした日々の痕跡はノスタルジックという言葉で消費される。

流した汗も夢見た将来も笑い合った日々も、幻ではなかったのにだ。そんなことを考えていると、「時代が変わったんですよ。ただそれだけ。この島も変わらなきゃいけない」と池本さんは笑顔で話す。

閉山した翌年には見学ツアーが始まり、かつての坑道や炭鉱住宅を見学できるよう整備された。地元住民や自治体、そしてかつての炭鉱マンたちが協力しながら、島の記憶を次世代へ伝える取り組みが続けられている。

池島に新しい風が吹き始めているのだ。全盛期のような人口は戻らなくとも、「池島を知る」「池島に触れる」ことを目的に訪れる人は増えつつある。

訪れた人が道を歩き、かつての営みに思いを馳せ、誰かの声に耳を傾けることで、ここにあった時間は確かに存在し続ける。池島は、ただの“廃れた炭鉱島”ではない。そこに積み重なった記憶の層が、人の心を打つ何かを、今もなお宿している。

四方岳からの景色を目に焼きつけた帰り道、再びフェリーに乗る。遠ざかる島影を見ながら思う。ここには確かに時代があった。

石炭という資源を掘り起こすために人が集まり、家族ができ、町ができ、そして時は流れていく。それはただの炭鉱の跡地ではない。池島は、日本を支えた名もなき人々の営みが、今もなお息づく場所なのだ。

■火力発電所

石炭火力発電所。選炭時に出る微粉炭を燃やして発電していた。また、発電時のボイラーの蒸気を利用し、海水から真水をつくる装置もあった。

■炭鉱住宅跡

島内で最も高い8階建てのアパート。階段や踊り場は子どもたちの遊び場になっていたのだとか。
子どもがいたずらで付けたと思われる手跡も当時のまま残る。

■第二立坑

炭鉱マンが地下へ出入りする場所となっていた第二立坑。共同浴場もあり、作業後の坑夫たちが汗を流していた。像は「女神・慈海像」。海の下の坑道を見守る。

⚫︎どうして閉山した?

1970年以降、世界的にエネルギー源が石炭から石油や原子力に移行したため、石炭の需要が減少、国の石炭政策等も要因の一つだ。また、海外からの安価な石炭の輸入が増加して池島の石炭価格競争力が低下するなど、いくつかの要因が重なった。採算が取れなくなり、惜しまれつつも閉山することになった。

案内人 池野 剛さん

池島が炭鉱島になる前から、代々池島に住んでいたという。かつては従業員として池島炭鉱で働いていた。

池島炭鉱跡
長崎県長崎市池島町
TEL/0959-26-0888(池島炭鉱体験施設)
見学料/2720円~ 
アクセス/『神浦港』よりフェリーで約15分

撮影/藤本 彦

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