14243進んで茨の道に散った情熱の武士「山中鹿介」。彼の生き様から武士道の精神性を知る|〈日本人と武士道〉

進んで茨の道に散った情熱の武士「山中鹿介」。彼の生き様から武士道の精神性を知る|〈日本人と武士道〉

男の隠れ家編集部
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下克上や裏切りが日常茶飯事だった戦国時代。まず生き延びるのが第一という風潮のなか、主家再興の望みを最後まで捨てず、進んで茨の道に散った情熱の武士・山中鹿介。一騎打ちに長けた猛将が、いかに主家を敬い「武士道」をまっとうしたのか真実に迫る。
目次

一騎打ちで武名を挙げた古風な若武者

出雲(島根)の戦国武将、山中鹿介(しかのすけ)。「鹿之助」あるいは「鹿之介」という表記でも知られているが、自筆の書状には「鹿介」とあり、諱(いみな・本名)を幸盛という。

一時期、中国地方を席巻した戦国大名・尼子氏の家臣である。幼少期から身体が大きく壮健で、13歳の時に早くも敵を討ち取り、手柄を立てたという。

16歳の時「30日以内に戦功を挙げたい」と三日月に向かって祈った。ほどなく願いは通じ、主君・尼子義久が山名氏の伯耆(ほうき)尾高城を攻めた際に従軍、因幡(鳥取県)で豪傑として名高かった菊池音八と一騎打ちを行い、見事にこれを討ち取った。

戦国時代には、すでに足軽を使った集団戦法が確立されており、武将同士の一騎打ちが行われる機会はあまりなかったようである。行われたとしても、それが戦争の勝敗を左右するほど大きな影響をおよぼすことはなかったと言っていい。しかし、この鹿介は何度も敵と一騎打ちをしたといわれている。特に有名なのが品川大膳との激戦だ。

山中幸盛像「月百姿」(月岡芳年作・1886年)/国立国会図書館蔵

品川大膳との戦い

毛利家の家臣・益田藤兼のもとに品川大膳という武辺者(ぶへんしゃ)がいた。その頃、鹿介の武勇は敵方にも知れ渡っており、大膳は常々、彼を討ち取り武名をあげたいと口にしていたようだ。

永禄8年(1565)、毛利元就は尼子氏を滅ぼすため、その本拠城である月山富田城(がんさんとだじょう)を攻撃。城は堅固であり、また尼子軍の奮戦によって戦いは長引いた。ある日、大膳が富田川の向こうを見ていると三日月の前立に鹿の角の脇立の兜をかぶった武士を見つけた。

月山富田城跡に建つ山中鹿介幸盛の銅像。三日月に祈る姿。

「あれが鹿介に違いない」と見た大膳は名乗りをあげた。鹿介はこれに応じ、富田川の中州まで進む。大膳はとにかく手柄が欲しかったためか、まず弓矢で鹿介を狙うが、鹿介の従者が矢を放ち、その弦を切ってしまった。

やむなく大膳は刀を抜き、挑みかかった。しばらく斬り合っていたが勝負がつかない。そのうち組み討ちとなり揉み合ったが、力で勝る大膳が鹿介を押さえ込んで首を討とうとした。

鹿介あやうしと思われたとき、下から腰刀で大膳の脇腹を2度突き上げる。のけぞる大膳を押さえ込み首を取った鹿介は「石見より出た狼を出雲の鹿が討ち取ったり!」と叫んだ。

不屈の精神で三度も旧領奪回に挑む

しかし、すでに情勢は毛利氏に傾いており、翌年11月に主君の尼子義久は元就に降伏、尼子氏は一時的に滅ぼされてしまった。鹿介は京都へ落ち延び、以後も尼子氏再興のために奮戦する。落ち延びる際、御家再興を祈願し、「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという。

鹿介が三日月にこだわるのは、山中家に代々伝わる家宝が、三日月の前立と鹿の角の脇立がついた兜だからで、家督を継いだときに引き継いでいる。

京で僧籍にあった尼子誠久の遺児、勝久を擁立してのち、鹿介は織田信長の力を借り、3度にわたって毛利家に戦いを挑む。寡兵で鳥取城を奪い取るなど、出雲一国を奪い返す寸前までいくが、兵力の不足や味方の裏切りなどで、ことごとく失敗に終わった。

芳年武者牙類「山中鹿之助幸盛」(月岡芳年)/国立国会図書館蔵

願わくは、
我に七難八苦を与えたまえ

その生き様は共感を呼び、日本史上の英雄の一人となる

天正6年(1578)4月、毛利軍は鹿介が篭もる上月城(こうづきじょう)を奪取すべく6万もの大軍で攻め込んできた。信長の命令で毛利と交戦中だった羽柴秀吉は救援に向かおうとしたが、信長から三木城(兵庫県)への援軍に向かうよう命じられたため、上月城は孤立し、ついに落城。主君の尼子勝久は切腹、鹿介は生け捕られ備後の毛利輝元の元へ護送される。

だが、その途上で護送役の河村新左衛門が斬りかかってきた。重傷を負いながらも何とか組み伏せたが、背後から別の者に襲われ、首を取られてしまう。享年34歳。尼子氏再興にすべてをかけた生涯を終えた。

武士道を精神的な支柱とした戦前の教科書には、月に祈った逸話が紹介されていた。その忠義と悲劇性が後世の人々に共感され、日本史上の英雄の一人となったのである。

毛利元就に奪われた月山富田城の山中御殿跡。

山中鹿介・奮戦録

1545年誕生
1560年山名氏の家臣、菊池音八を一騎打ちで討ち取る
1565年毛利元就が尼子義久の居城・月山富田城を攻撃
鹿介は塩谷口で毛利軍の吉川元春と戦い、撃退
鹿介、品川大膳を討ち取る
1566年尼子義久、毛利元就に降り、主家が滅亡
1568年京都で僧籍にあった尼子誠久の遺児、勝久を還俗させ擁立
1571年吉川元春に敗れ、尾高城に幽閉されるが脱出
1573年因幡へ攻め入り、10日で15城を攻略する
1574年若桜鬼ヶ城ほか東因幡一円を支配し、尼子氏を再興させる
1576年情勢不利となり若桜鬼ヶ城を退去し、京へ逃れる
1577年織田信忠に従い、松永秀久が籠城する信貴山城攻略に参加
羽柴秀吉に従い、上月城を攻略。尼子勝久と共にとどまる
1578年上月城が攻められて毛利軍に降伏
護送中に殺害される。享年34歳

文/上永哲矢


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