齋藤道三と朝倉義景、二人の大名との関係


金華山の山頂に築かれた岐阜城。かつては稲葉山城と呼ばれ、道三が居城としたが、信長が地名を「岐阜」と改めてから岐阜城となった。
岐阜城から岐阜の城下町を望む。

道三、義景、義昭、藤孝 そして信長と広がる人脈

イエズス会の宣教師だったルイス・フロイスの著書『日本史』によると、明智光秀は高貴な家の出ではないようだ。とはいえ、美濃国の守護大名だった土岐氏(ときし)の血を引く土岐明智氏の出であるという。光秀に関する系図は色々あり、記述もまちまちであるため出自がはっきりしないのだが、フロイスの「高貴な家」の基準も極めて曖昧だ。

光秀が歴史の表舞台に登場するのは、十五代将軍・足利義昭に仕えてからである。その以前は、世に出る機会を狙いながら雌伏の地にいた。それが美濃と越前だ。

まず美濃だが『美濃国諸旧記』によると当時、国主だった斎藤道三の正室は光秀の叔母にあたるという記述もある。これが織田信長の妻となった道三の娘の帰蝶(濃姫)と光秀が従兄弟という説につながっている。しかしどちらの資料も、光秀が亡くなってかなり年月を過ぎてからのもののため通説ではあるが確証はない。

その美濃で道三と息子の高政(義龍)の間で争いがあり、道三は高政に討たれてしまう。その際、光秀は道三方についたとする説もあるが、現在では事実でないとされている。しかし、この内紛によって光秀は致し方なく美濃を離れ浪人となり、越前に落ち延び、朝倉義景のもとに身を寄せたのは確かだ。

一乗谷遺跡。この地区は道路に面し、隣家と接するように町家が建てられていた。様々な店や医師の屋敷なども混在すように軒を連ねていたとされる。

越前にある称念寺(しょうねんじ)という寺院に居住していた証拠があるためだ。この越前で光秀は義昭や細川藤孝と出会っているが、義景が天下に号令する人物でないことを知り、この二人に同行して信長へ近づいていく。信長は光秀の才略や深慮、狡猾さに目を止め、使える男と判断したようだ。光秀が信長に仕えるまでは、もう少し時間を必要とするが、すでに信長と義昭・藤孝の間を取り持つ役目を担っていた。

そして信長は上洛し、義昭は室町幕府の第十五代将軍となる。光秀も同行したわけだが身分は足軽衆だった。雑兵ではなく行列などの際に徒歩で従う侍である。この時点で義昭は光秀にさほど重きを置いていなかったのかもしれない。

一方、光秀は連歌会などに足しげく参加して人脈を広げていく。この人脈をはじめ、信長、義昭、藤孝との接点をもとに、いよいよ出世の階段を登っていくことになる…。

光秀と妻が寄遇した寺

福井県坂井市にある称念寺は養老5年(721)に阿弥陀堂が創建されたのを始まりとする歴史ある寺院。この寺の門前で、朝倉義景を頼った光秀夫妻が10年ほど居住したという僧侶による記録が残されている。光秀と同時代の人による回顧だけに真実味がある。

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