文学を志す青年の意志に反し、時代は彼を軍人に仕立てた
日露戦争が始まって半年が経過した明治37年(1904)8月19日、4万を超えるロシア軍が立て籠もる遼東半島の旅順要塞を攻略するための戦いが、本格的に始まった。
その任に就いたのは、新たに編成された第三軍で、軍司令官は乃木希典大将であった。乃木は日清戦争の際、旅順要塞を1日で陥落させた。その経験を大本営は見込んだのである。
旅順攻略戦に先立つ6月6日、第三軍の首脳たちは、奥保鞏(やすかた)大将率いる第二軍が攻略した、南山の激戦地に立っていた。全山が焼けただれた光景が、この地で起こった激戦の様子を物語っている。
「山川草木転荒涼 十里風腥新戦場
征馬不前人不語 金州城外立斜陽」
これは硝煙の臭いがまだ立ちこめる南山の戦場で、乃木大将が詠んだ詩である。殺伐とした戦場の様子を、あくまで叙情的にとらえた見事な詩である。
だがしかし、ここで乃木が感じるべきことは詩的なものではなく、奥第二軍が強いられた近代戦の激しさを、これから向かう旅順要塞攻略にどう生かすか、ということだ。
人に教ゆるに、行を以てし、言を以てせず、事を以てせず
乃木希典は長州藩の支藩である長府藩藩士の子として、江戸の長府藩上屋敷で生まれた。一家は希典が10歳の頃、長州に戻る。この頃の長州は維新の風雲に包まれていた。
しかし武士の子でありながら心根の優しかった希典は、他の子たちのように武をもって名を成そうとは望まなかった。むしろ文学で身を立てたい、と考えていたのだ。しかしその夢は叔父によって打ち砕かれ、武門の道に進むことになったのである。
その道は順風満帆ではなかった。明治8年(1875)、長州閥の恩恵を受けた乃木は、少佐に任官する。しかし2年後に勃発した西南戦争で、乃木が指揮していた連隊の連隊旗が西郷軍に奪われるという失態を演じてしまう。この件は上層部から不問に付されたが、乃木は何度も自決を図ったようだ。
戦後しばらく放蕩生活を送り、軍における居心地の悪さを忘れようとしていた。その後、明治20年(1887)1月から翌年の6月まで、ドイツ帝国に留学。そこで「軍人とはどうあるべきか」という精神を、ドイツ式の礼法や服装、立ち振る舞いに求めた。帰国後はそれまでの放蕩ぶりが嘘のように、清廉でスタイリッシュな軍人・乃木希典が誕生する。
不器用な軍人であったが世界に武士道を知らしめた
軍人としては、はなはだ不器用だった乃木ではあるが、それでも約半年の攻防の末、旅順要塞を攻略することができた。日本側の戦死者は1万5400人余、負傷者は4万4000人余に上る。そして明治38年(1905)1月5日、旅順要塞司令官・ステッセル中将との会見が行われることになった。
この「水師営の会見」の際、アメリカ人の映画技師が、会見の様子を活動写真に収めたいと要望する。だが乃木はそれを認めず、副官を通じて丁重に断った。ところがアメリカ以外の国々も、撮影の許可を求めなかなか引いてくれない。
そこで「敵将にとって後世まで恥が残る写真を撮らせることは、日本の武士道が許さない。しかし会見の後、我々が既に友人となって同列に並んだところならば、一枚だけ撮影を許可しよう」と答えたのである。
その言葉通り、会見終了後の写真には乃木・ステッセル両将が肩を並べて座り、両軍の幕僚たちもまるで友人同士のように居並ぶ。しかも乃木はステッセル以下に帯剣まで許しているのだ。これは世界の常識ではあり得ないことだ。
勝者が敗者を思いやり、互いの栄誉を称え合ったのである。外国人記者たちはこの配慮に感動。このときの電文と写真は、世界各国に配信された。こうした乃木の行動は、日本の武士道精神を世界に知らしめる結果となった。
乃木は明治天皇が崩御すると殉死する。主君に殉ずる武士道の流儀を固守したわけだ。そんな乃木は自決まで、流刑になったステッセルの家族に生活費を送り続けていた。
※2013年掲載
文/野田伊豆守
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