14648月明かりに浮かぶ、美しき国宝5天守のひとつ「彦根城」(滋賀県彦根市)|多種多様な破風が彩る3層の天守〈現存十二天守を学ぶ〉

月明かりに浮かぶ、美しき国宝5天守のひとつ「彦根城」(滋賀県彦根市)|多種多様な破風が彩る3層の天守〈現存十二天守を学ぶ〉

男の隠れ家編集部
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大坂の陣を挟んで前後2期、約20年にわたる工事の末、 近世城郭と中世城郭の手法を融合して造られた井伊家の居城。 琵琶湖のほとり、彦根山上に頂く天守は小規模ながら、 意匠性・戦略性に富む国宝5天守のひとつとして今も君臨する。
目次

天下普請で着工され足かけ約20年がかりで完成

関ヶ原の戦い後、上野国から石田三成の居城だった佐和山城へ入り、後の彦根初代藩主となる井伊直政は、三成の残像を払拭すべく佐和山に代わる城の建造を計画するも、関ヶ原での戦傷がもとで入城の翌年あえなく死去してしまう。

その遺志を継いで佐和山から約2㎞西方、琵琶湖岸に寄り添う彦根山で新しい城の築城に着手したのが、嫡男である直継だった。

慶長9年(1604)の着工当時、まだ戦乱の火種がくすぶり、豊臣恩顧の大名が多い西国への睨みを利かせ、また大坂城包囲網のひとつとして、彦根城は軍事的な要。

そのため幕府から6名の普請奉行が派遣され、近隣大名が助役として動員される、諸国あげての天下普請となった。

周辺の古城や廃寺からも資材をかき集め、急ピッチで築城が進められた結果、本丸など主要部は数年で完成する。

その後、大坂の陣での中断を経て、直継の後を受けた弟・直孝の時代にも藩単独で工事が続けられ、元和8年(1622)に城郭全体が整う。以降、譜代大名筆頭・井伊氏の居城として受け継がれていく。

戦国的な登り石垣と大堀切が本丸への侵攻を厳しく阻む

人工的に付け替えた芹川を第一防衛線にして、その北側に構築された縄張りは、今はない外堀を含む3重の堀が巡らされ、南北に広がる彦根山全体を第一郭として活用。

麓を縁取る内堀やその外周の中堀は現在も残り、往時の面影を偲ばせる。

中堀に開かれた4つの門のうち、南側の京橋口が大手であるが、五街道のひとつ・中山道が整備されて以降、表門へ通じる南東部の佐和口が最寄りということで、実質的な正門として機能するようになった。

いろは松と呼ばれる中堀沿いの通りを進むと現れる佐和口多聞櫓は、その名残である。桝形の左翼に連なる建物は、明和8年(1771)頃に再建されたものとはいえ、重厚な佇まいが玄関口にふさわしい風格を漂わせている。

内堀の表門橋を渡った表門跡の奥、外観復元されて彦根城博物館として公開される表御殿の脇を経て、山上への急勾配が続く表門山道へ。

すぐ左手の斜面をはうように設けられた高さ1m余りの登り石垣は、秀吉の朝鮮出兵時に各地で築かれた倭城の手法の流用とされ、戦国時代の竪堀や竪土塁を石垣化したもの。

斜面から本丸への接近を試みる敵の横移動を封じる狙いがあり、ここを含め計5カ所に設けられている。

表門山道を登りきると、もうひとつの特徴である大堀切。南北の尾根を深く掘り下げた空堀で、天秤櫓などから集中攻撃を浴びせかけられるだけでなく、頭上の鐘の丸と太鼓丸を分断している。

大手門側からの合流地点でもあり、本丸へ向かうには奥の坂を上がって鐘の丸へ回り込む必要がある上、その先の橋を落とされると、そそり立つ石垣を這い上がるしかない。

同様の大堀切は本丸の北西部、西の丸の外側にも設けられ、行く手を阻む。近世城郭の代表といわれながら、これら戦国的手法を併せ持つのは彦根城ならではだろう。

そして、長浜城大手門の移築との説もある天秤櫓をくぐると、石垣に囲まれた斜面に広がるのが太鼓丸。最後の難関である太鼓門櫓を越えて、ようやく本丸へとたどり着く。

多彩な破風で飾られた天守は城本来の機能性も併せ持つ

藩主の居館である御広間や城下を見下ろす着見櫓などもあったという本丸だが、今は附櫓と多聞櫓が付設された3層3階の天守のみが佇む。最盛期には30万石規模の大藩にしては天守が小ぶりに見えるのは、築城当時まだ18万石だったから。

一見すると粗雑な打ち込み接ぎの石垣は、重心が内下に向くように長大な自然石がかみ合わされ、隙間に小さな石をはめ込んだもので、見栄えよりも堅固さを重視した。

対照的に建物外観は意匠が凝らされ、とりわけ象徴的な装飾が4面を取り巻く多種多様な破風屋根だ。小規模な天守でありながら18もの破風が施され、どの方角からでも見劣りしない。

例えば正面側の東面は入母屋破風・唐破風・切妻破風が組み合わされ、シャープで端正。南面は最上層に唐破風が採用され、下層に切妻破風などを交え、建物幅が東西面の倍ほどあることと相まって重量感ある趣も。

さらに3階部分には高欄付き廻縁がぐるりと巡らされ、3階に加えて2階部分にまで花頭窓があしらわれているのも目を引く。

昭和30年代の解体修理により、天守は別の城郭からの移築と判明。井伊家の歴史書『井伊年譜』にある記述や、発見された墨書などから、4層5階の大津城天守の資材が使われた可能性が高いと考えられている。

天守内部へ入ると柱や梁の所々に現在使われていない“ほぞ穴”が見られるのも、まさにその証しだろう。

石落としが一切見られないのも彦根城の大きな特徴だが、代わりに鉄砲・矢狭間は天守内に全部で75カ所。しかも外側からは見えないように漆喰で塗り込められ、隠し狭間に仕立てられている。

ほかにも、一部の破風内部は隠し部屋になっていたり、城外側の外壁は栗石を詰めた太鼓壁にして防弾性能を高めていたり、極めて実戦的な工夫が数多いといえる。

江戸時代のほかの城郭同様、戦の舞台になることはなく、廃藩置県後に各地で進められた解体の危機も、明治天皇への大隈重信の奏上などにより回避。

鬱蒼と茂る樹木が覆う彦根山頂に今なお鎮座する美しい天守は、「月明・彦根の古城」として琵琶湖八景のひとつにも数えられている。

彦根城|ひこねじょう
滋賀県彦根市金亀町1-1
TEL:0749-22-2742(彦根城管理事務所)
開館時間:8:30〜17:00
休館日:なし
入場料:大人800円(玄宮園含む)
アクセス:JR東海道本線「彦根駅」より徒歩約15分

※開城時間等についてはHP等で要確認。

文/笹木博幸 撮影/尾上達也

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