14815案内人と共に歩く、現存十二天守の城「弘前城」(青森県弘前市)|津軽家十二代の歴史を物語る、総構えの壮大なる名城

案内人と共に歩く、現存十二天守の城「弘前城」(青森県弘前市)|津軽家十二代の歴史を物語る、総構えの壮大なる名城

男の隠れ家編集部
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現存天守のなかで最北端に位置する弘前城(青森県弘前市)。広大な城内には築城時の縄張や郭、城門が今も残る。藩祖・津軽為信は何ゆえこの壮大な城を思い描いたのか。津軽の人々がしたたかに生き抜いてきた歴史に思いを馳せる。
目次

東北唯一の現存天守は
江戸時代後期の建造

豊かな水をたたえる外濠、その内側に巡らせた土塁。弘前城で最初に目にしたのは穏やかな静の風景であった。土塁は東日本に多い古い時代の城郭の特徴だ。水と土と草木が織りなす素朴な城周りは、最北端の現存天守・弘前城に似つかわしい。

土塁上に植えられた桜が満開になる頃、城は大勢の観光客で賑わう。

「弘前城のソメイヨシノは明治維新後に旧藩士が植えたもので、江戸時代は松の木が多い城でした」と話すのは、案内人の元弘前市観光振興部の宮川慎一郎さん。華やかな桜でなく松の緑。土塁の城にはふさわしい色彩かもしれない。

南側にある追手門。築城時は搦手だったが、四代藩主の時から大手口に。ほかの城門と同じく江戸初期の建造とされる。

南側中央にある追手門から城内に入った。三の丸、二の丸と進む。

弘前城は本丸を二の丸が囲み、さらにその外を三の丸で囲む、梯郭式の平山城である。史跡の総面積約15万坪の広大な敷地には、6つの郭、3櫓、5城門が現在も残り、その周りを3重の濠が囲んでいる。築城当時の縄張りをほとんどそのままの状態で残している全国でも珍しい城郭である。

城外に目を転じると、町の東側を流れる土淵川、西の岩木川。北東には八幡宮を置き、南には南溜池、南西には長勝寺構を配置した。見事な総構えの城である。

弘前藩は当初4万5千石。家格から考えると破格といってよい規模の城である。雪深い北の地にこの壮大なる城を構想した人物は、初代藩主である津軽為信だ。元は大浦氏といい、当時、津軽を支配していた南部氏に反旗を翻して独立に成功した。これがもとで、南部と津軽の不仲は今に至るまで続いているともいわれる。

為信は南部氏との抗争の一方、いち早く豊臣秀吉に認められ所領を安堵された。関ヶ原の戦いでは東軍につき、二代藩主・信枚が徳川家康の養女を正室に迎え、天海大僧正と師弟関係を結ぶなど、徳川幕府の時代になっても外交努力を重ねた。

南内門の前にある杉の大橋。

「中世以来の支配基盤を持つ南部家に対し、津軽家は成り上がり者の小藩。それで、事あるごとに自らの存在をアピールしようとしました」

津軽家が幕末まで津軽一国を支配できたのは、津軽の地理的なポジションが大きい。古くはアイヌ、その後はロシアという北方勢力の脅威に対する国防の拠点としての役割を強調できた。また南部、伊達など東北地方の外様大藩に北から睨みを利かす存在でもあった。壮大な総構えの城は分不相応だったわけではない。

杉の大橋を渡ると目の前に現れる、二の丸の城門・南内門。

「津軽人の気質もあるでしょう。『津軽の三ふり』といって見栄を張ったんです」と案内人は多少の自虐も込めて語る。ちなみに三ふりはえふり(いい格好しい)、あるふり(無いのにあるふりをする)、おべだふり(知ったかぶり)。寡黙のイメージがある津軽人の意外な素顔である。

町割は一代の英雄・為信によって慶長8年(1603)に始まり、築城は二代・信枚に引き継がれ、弘前城は慶長16年(1611)に完成した。

下乗橋(げじょうばし)から見た弘前城天守。ここからの天守の眺めが城内で最も美しいとされる。 ※現在は曳家をして移動先にある。

その城跡を三の丸、二の丸と歩いて、ようやく天守を一望できる内濠端に着いた。赤く塗られた下乗橋から桜の枝越しに天守が見える。本丸だけは土塁でなく石垣に囲まれている。天守は本丸の南東の隅。切妻屋根、白漆喰塗り籠めの3層の独立式天守である。

「この天守も津軽のえふりのひとつ。濠に面した南側、東側は切妻破風を設けた立派な外観。幕府の巡見使が来た時に、二の丸から見える外観にこだわったからです」と案内人。

なるほど裏側に回ると北西の2面には破風が無く、至って地味な意匠である。築城の際に建立された本来の天守は本丸の南西にあったが、寛永4年(1627)に焼失した。

二の丸の南西にある未申櫓。3 重3階の隅櫓だ。追手門から入ると最初に目にする南東隅の辰巳櫓と対照的な位置にあり、築城時から残る二の丸辰巳櫓と同時期に、石垣に改修されたと見られる。

「天守台の面積はもっと広かったんです。天辺に釣鐘が下がり、5層の天守だったと伝えられています」

釣鐘を擁した5層の天守は、この壮大な城にふさわしい立派な天守であったろう。その後、弘前城には長らく天守が不在であった。徳川幕府は新たな城の建設に厳しい目を向けていたが、九代藩主・寧親の時、幕府から三重櫓の改修が許され、文化7年(1810)に竣工した。この異例ともいえる措置の背景には、弘前藩が蝦夷地警護を果たした功績が評価されたことがあるという。天守が小さく地味な造りなのは、隅櫓造営の目的で造られたためだ。

弘前城から望む岩木山。旧天守があった本丸西側から は、晴れた日には優美な津軽富士が山裾まで見える。

本丸には天守のほかにも見るべきところがある。ひとつは司馬遼太郎が絶賛した岩木山の絶景だ。山岳信仰の山は津軽の人にとって特別な存在であり、城造りの際に岩木山の借景を取り込んだのである。もうひとつは石垣だ。

「弘前城は石垣の勉強をするには最適の城。築城当時の石垣から昭和まで、違う年代に築かれた石垣の違いが1カ所でわかるところに魅力があります」

案内してくれたのは本丸東側の石垣。北東隅の算木積みから、野面積み、谷積み、布積み。今の天守台は大正時代に堀江組が積み直したという。本丸には切り込みハギや縦に筋目を入れた「すだれ」石も残っている。

天守台の石垣を前にして、案内人が「実は……」と話し始めた。

「天守台の石垣で中央部分が膨らむ『孕み』が起きているので、現在、大修復を行っています。天守を移動させて石垣を解体、積み直しています」

そのようなことが可能なのか。

「曳屋の工法で本丸の北西に70m移動させます。明治時代にも行われました」。城の中心に鎮座する天守が曳屋の工法で動かされる。大修復を終え生まれ変わった石垣を見るのが楽しみだ。

本丸を後にして北側に向かい、北の郭、四の丸、西の郭と6つの郭、櫓、城門を全て見学する。時間があれば禅林街で、長勝寺構を見たいものだ。城から遠く離れた場所に残る土塁を見れば、津軽為信が思い描いた総構えの城のスケールがよくわかる。

そして現在弘前城は、天守曳屋工事、石垣解体工事を終えて2020年から石垣の積み直し工事が始まっている。

ひろさきじょう
青森県弘前市大字下白銀町1番地弘前公園内
TEL:0172-33-8739(弘前市公園緑地課)
入館時間:9:00〜17:00(4月1日〜11月23日)
入場料:320円(本丸・弘前城天守・北の郭) 
※上記期間外、入場時間外は無料
アクセス:JR奥羽本線「弘前駅」より
バス約15分「市役所前公園入口」下車

※開城時間等についてはHP等で要確認。

文/阿部文枝 撮影/須貝智行

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