14846家康自ら縄張りをしたと言われる「福井城」(福井県福井市)|徳川方の北陸の要。白亜の城郭建造物〈古写真で見る失われた名城〉

家康自ら縄張りをしたと言われる「福井城」(福井県福井市)|徳川方の北陸の要。白亜の城郭建造物〈古写真で見る失われた名城〉

男の隠れ家編集部
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廃藩置県が実施されて間もない頃の福井城の古写真4点である。寛文9年(1669 )の大火で天守が焼失したため、その後は、3層3階建てのこの本丸巽櫓が天守の代役を果たしてきた。
目次

家康自ら縄張りをしたとされ
天下普請で城は築かれた

城下に店を構えていた写真師たちによって撮られたものと思われるが、この城の基礎を築いたのは柴田勝家で、天正3年(1575)に築城した北ノ庄城。しかし、北ノ庄城は織田信長亡き後の覇権を争った羽柴秀吉に攻められ、勝家は正室の市と共に自害し、すべての建物は焼失してしまった。

屋根付きの廊下橋と天守台。写真:福井市立郷土歴史博物館

その跡地に新たな城を築いたのが徳川家康の次男である結城秀康。北陸の要となる城であるため、家康自ら縄張りをしたという説がある。

これは本丸の北西櫓に天守を築き、それを堀で囲うと共に土橋でつなぐ、家康の得意とする築城技法が用いられたからだ。そして諸大名を動員した大規模な普請が行なわれ、約6年の歳月をかけて慶長11年(1606)に福井城は完成した。

その後の約270年もの間、越前松平家十七代にわたる繁栄の舞台となった名城の誕生である。

築城当時は高さ37m、4層5重の雄大な天守と3重の堀があったといわれ、2㎞四方におよぶ広大な敷地を城郭としていたが、寛文9年(1669)に天守が焼失し、以後、藩財政の悪化や幕府への配慮などから天守が再建されることはなかった。再建の許可が幕府から下りなかったとする説もある。

ふくいじょう
築城年/慶長11年(1606) 廃城年/明治4年(1871)
主な藩主/松平慶永、松平茂昭 藩名/福井藩
構造/輪郭式平城、望楼型4重5階
遺構/石垣、土塁、堀 住所/福井県福井市大手

文/相庭泰志
写真/福井市立郷土歴史博物館

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