15289古写真で見る失われた名城「岡山城」(岡山県岡山市)|燦然と金箔瓦が輝く5重6階の黒色の城

古写真で見る失われた名城「岡山城」(岡山県岡山市)|燦然と金箔瓦が輝く5重6階の黒色の城

男の隠れ家編集部
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豊臣秀吉に厚遇された大名・宇喜多秀家が、秀吉の指導を受け、8年の歳月を費やして慶長2年(1597)に完成させたのが、屋根に燦然と輝く金箔瓦を載せた岡山城だ。
目次
後楽園の旭川と天守閣。ボートに乗った人が天守を眺めている。写真/岡山市立中央図書館

軍事・政治・経済を重んじた城
空襲によって失われた天守

一見すると5重6階の天守閣はひとつの建物に見えるが、実は西側に塩蔵と呼ばれる別の櫓があり、その櫓が天守閣に直接付属している複合式天守閣となっていた。

また防火のために表面を焦がして炭化させた焼き板を多用したことなどから、後年「烏城」と呼ばれるようになる。

しかし、この城は大きな弱点を合わせ持っていた。立地上、城を西向きで建てざるを得なかっただけでなく、北面から東面にかけては本丸を守るための郭を造ることができなかったからだ。

これでは、城の背後にあたる東からの敵の攻撃に極めて弱い。そこで秀家は、近くを通る旭川の流れを変え、本丸を囲んで蛇行するよう大工事を敢行した。

一方、秀家は戦を見据えた城造りだけでなく、政治経済を重んじた城下町造りにも着手し、西国街道の変更などを行い現在の岡山の基礎を築いた。

そして、関ヶ原合戦で敗れた秀家に代わって城主となった小早川秀秋は、新たに外堀を設けて寺町を配置した。さらに池田家が藩主となると、旭川の北側に広大な大名庭園である後楽園が造られた。

岡山城の天守閣が失われたのは昭和20年(1945)の空襲によってである。そのため、明治初期のものも含め、数多くの写真が撮影された。

岡山城 おかやまじょう
築城年/慶長2年(1597) 廃城年/明治6年(1873)
主な藩主/宇喜多秀家、小早川秀秋、池田忠雄
藩名/岡山藩(備前藩) 構造/梯郭式平山城、複合式望楼型4重6階 遺構/月見櫓、西之丸西手櫓、石垣、堀
住所/岡山県岡山市北区丸の内

文/相庭泰志
写真/岡山市立中央図書館、「岡山県史蹟名勝天然記念物調査報告」第9巻(昭和7年)

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