仙台藩の南の要衝として明治まで片倉氏が居城した

文政6年(1823 )に再建された、最晩年の3 階櫓を構造から忠実に復元 。戦後の木造復元天守では高さ、広さ共に最大級となる。

元々、伊達家の領地であったが、天正19年(1591)に豊臣秀吉が没収。会津若松城と共に蒲生氏郷に与えた。この時、蒲生氏家臣の蒲生郷成によって築城されたのが城の始まりとされる。その後、関ケ原あ合戦の直前に伊達政宗は白石城を攻略。

破却後、公園となっていた城跡を発掘し天守の造りが明らかとなった。

再び伊達領となり、慶長7年(1602)に家臣の片倉小十郎によって大改修がなされた。以降、明治まで260年余り、片倉氏の居城であった。

元和元年(1615)の一国一城令においても、仙台藩は仙台城と白石城の二城が許され、幕末には奥羽列藩同盟会議の舞台ともなった城である。城は、明治6年(1873)の廃城令により翌年に解体。しばらく後、益岡公園として整備された。

復元は石垣積みから始まる。白石城の石垣は野面積み。

そして昭和63年(1988)、城の復元が決まり、史料の収集や発掘調査が行われた。旧城と同じ規模と建築方法で完成した3階櫓の天守は昔ながらの工法を用い、補強金具は使用していない。

城壁は白石地方の土壁塗りを何度も繰り返し、漆喰で仕上げている。その厚さは21〜24㎝で、日本古来の耐震構造となっている。木材は大半が国産である。二ノ門の梁には直径120㎝以上の良質の檜の大木が必要で、樹齢1000年の台湾檜が採用された。

天守3 階は30畳ほどの広さがあり、戦の際には敵の状勢を見ながら軍儀を開くことも考えられていたという。

しろいしじょう
築城年/天正19年(1591)
廃城年/明治7年(1874)
構造/梯郭式平山城
主な城主/白石氏、蒲生氏、上杉氏、片倉氏
遺構/石垣、移築門、移築蔵