晩秋、静謐な時間が流れるキャンプ場で天体観測を楽しむ人が増えている。11月19日の「部分月食」は16時18分頃に始まり、時間の経過とともに欠けていき、18時2分に「部分食の最大」を迎える。

今回の「部分食の最大」は月のほとんどが地球の影に入るため、「皆既月食」と同じような赤みがかった暗い月が見られるという。

その昔、この赤みがかった暗い月は不吉なことが起こる予兆として忌み嫌われた。古代から中世を中心に「月食」にまつわる歴史を振り返る。

日本最古の天文記録は「オーロラ」

暦や卜占に関連した天文学は、古代中国から朝鮮半島を経て日本へ伝えられた。『日本書紀』によれば舒明天皇15年(554)に朝廷の求めに応じて百済から暦博士・固徳王保孫が来朝。その後、推古天皇10年(602)に百済の僧・観勒が暦本を献じ、陽胡玉陳が暦法を学んだという。

日本最古の天文現象が記録された文献も『日本書紀』で、推古天皇28年12月1日に「赤気」(オーロラ)、8年後の同36年3月2日には「日食」(日蝕)がみえる。

『日本書紀』(国立国会図書館デジタルコレクション)
『猿猴庵随観図絵』「オーロラ」(国立国会図書館デジタルコレクション)

「月食」(月蝕)に関しては皇極天皇2年(643)5月16日とあるものの、これは日本(飛鳥京)からは見えない暦算上のもので、実見できた「月食」は天武天皇9年(680)11月16日とされている。

藤原種継暗殺事件には予兆があった!?

当時の「月食」(日食も)に関する記事は「月有蝕之」などと短く残されたため、暦算によるものか、実見したものかわかりにくかった。しかし時代が下ると、実際に見て書いたような観測記事が現われる。

「乙丑の年(延暦4年〈785〉)の秋の九月十五日の夜に、竟夜(よもすがら)月の面黒く、光消え失せて空闇(くら)し。同じ月の二十三日の亥の時に、式部卿正三位藤原の朝臣種継、長岡の宮の嶋町にして、近衛の舎人雄鹿の宿禰木積、波々岐の将丸に射死(ころ)されき。その月の光の失せしは、これ種継の卿の死に亡する表相なり」

長岡京遷都の翌年、延暦4年(785)に起きた桓武天皇(第50代)の腹心・藤原種継暗殺事件は、日本最古の仏教説話集『日本霊異記』(下巻・第三十八)の中で「月食」によって予兆されていたと説かれていた。

『日本霊異記』、正しくは『日本国現報善悪霊異記』という(国立国会図書館デジタルコレクション)

中世日本の「日月食」観

古代中国では「日食」は皇帝、「月食」は皇后や臣下に不吉なことが起こる予兆とされた。また天命思想によって異常気象は地上の失政に対する天の警告とされたため、事前に「日月食」が予報されるようになる。

古代日本も「日食」は予報され、その日は廃務としたようだが、律令編纂期、飛鳥・奈良時代に女性が天皇になることが珍しくなかったせいか、あまり「月食」は重要視されていない。

しかし、藤原種継暗殺事件のあと、平安時代前期に成立した『続日本後紀』以降、「月食」の記事が増える。おそらくこの頃から「月食」も予報されるようになり、やがて日本では「日月食」の光自体が天皇の身体に有害なものと考えられるようになった。

『続日本後紀』(国立国会図書館デジタルコレクション)

鎌倉時代初期の有職故実書『禁秘抄』には「日月食」の予報が出ると、廷臣はその光に当たらないように「日食」時は夜明け前、「月食」時は日暮れ前(月が出る前)に出仕して天皇の御所を蓆で包み、僧侶は御修法を奉仕して読経などを行なったとある。

しないでよいことはせず、物事に慎む方がよい

「日月食」の光が身体を害するという考え方は、平安中期から後期にかけて広く浸透したとみられる。

「月食」の過ごし方について、平安末期の公卿・九条兼実は日記『玉葉』(承安2年〈1172〉6月15日)の中で「一字金輪法」を修して息災や長寿を祈願したといい、鎌倉幕府の正史ともされる『吾妻鏡』には、建久元年(1190)6月14日、源頼朝が有力御家人の一・小山朝政の家に出かけたおり、「月食」の最中に屋外にいることを避けて止宿したと伝えていた。

『肖像集』「九条兼実」(国立国会図書館デジタルコレクション)

また九条兼実、源頼朝と同時代を生きた歌人・西行は「月蝕を題にて歌よみけるに」と題する歌を残している。

〽忌むといひて 影に当らぬ 今宵しも
 われて月見る 名や立ちぬらん(『山家集』)

現代語訳は「月蝕は忌むべきものといって、月の光にも当たらないようにする今宵、その月を強いて仰ぎ見る自分にはおかしいという評判が立つだろうか」となる。

『西行法師御一代記.』(国立国会図書館デジタルコレクション)

現代では「月食」は太陽-地球-月が一直線に並び、地球の影によって月が欠けたり、覆われる現象で、「皆既月食」時に赤みがかった暗い月になるのは、太陽光のなかでも波長の長い赤い光が地球の大気に屈折して月を照らすからだと知っている。が、この知識がなかった人々の目に「月食」はさぞ不気味に映っただろう。

その後、時代が下るにつれて「月食」の仕組みが解明され、人々の警戒心も薄れていく。

ただ、源頼朝や西行らの時代から約600年後の江戸時代、天明7年(1787)に『こよみ便覧』を著した太玄斎(松平頼救・常陸宍戸藩5代藩主 )は、同書の中で「月食」の仕組みをほぼ正確に説明しながらも、「万さわりなし、とはいうものの、しないでよいことはせず、物事に慎む方がよい」と書き残している。

『こよみ便覧.』(国立国会図書館デジタルコレクション)

古来より伝わる風習に倣うなら、「月食」はあえて自ら進んで見るものではない、といったところだろうか。

その日、「月食」を見るかどうか、判断は読者諸氏に委ねたい。

【タイトル写真】
・「皆既月食」(提供:国立天文台)
【参考文献】
・内田正男著『暦と時の事典』(雄山閣)
・斉藤国治著『歴史の中の天文―星と暦のエピソード」(雄山閣)
・細井浩志著『日本史を学ぶための〈古代の暦〉入門』(吉川弘文館)

文/水谷俊樹(作家・漫画原作者)
1979年、三重県尾鷲市生まれ。現在は歴史ジャンルや登山などのアウトドアを中心に執筆活動をおこなう一方、マンガ作品の企画や監修も手掛けている。東京コミュニケーションアート専門学校講師。主な著作に『CD付「朗読少女」とあらすじで読む日本史』(中経出版)、監修を担当する作品に『ビッグコミックスペリオール』で連載中の『太陽と月の鋼』(小学館)など。

▼あわせて読みたい