源頼朝が新都に選んだ鎌倉
その象徴であった大社

若宮大路と段葛

鎌倉駅から鶴岡八幡宮に通じる小町通りは、若者受けする洒落た店が多く、鎌倉でもっとも人口密度が高い場所だ。常時、老若男女がひしめきあい、人通りが絶えることがない。ただ、野暮をいうようではあるが、八幡宮を訪ねるなら往路ぐらいは若宮大路を通るべきだろう。

駅前ロータリーを抜け、若宮大路に出る。目の前に二ノ鳥居がそびえ、その足元に段葛がある。鎌倉に拠点を置いた源頼朝が鶴岡八幡宮を現在地に遷して、その八幡宮を中心に整えた参道。そこを歩み、往時に思いをめぐらす。

平安・鎌倉期には、まだ戦国時代のような「城」はない。何しろ頼朝は直轄軍すら持たなかった。声望と仁徳、平家追討という大義で御家人を統率し、主従関係を結び、古都・鎌倉を防衛させていた。参道の段葛も防衛的な設備ではなく、敵の侵入を阻むほどの構造ではない。よくぞ鎌倉の首都機能を保ったものと感じる。

すぐには八幡宮へ向かわず、由比ヶ浜方面にある「一ノ鳥居」まで歩いた。若宮大路は現在の県道21号線になってしまっており、鳥居は道路の真ん中にある、島のような形状の空き地にそそり立つだけだ。

一ノ鳥居

ここまで来たのには意味がある。鳥居から東へ入ったところに小さな社が、ポツンと佇んでいる。鶴岡八幡宮の原点「元八幡」(由比若宮)である。

康平6年(1063)、頼朝の祖先にあたる源頼義が京都・石清水八幡宮を勧請した。その後、頼義から義家、義親、為義、義朝と続いて河内源氏の棟梁となった頼朝は治承4年(1180)10月に元八幡を小林郷へと遷し、八幡神を祀る鶴岡八幡宮を創建。以来、現在地に八幡宮が鎮座し、源氏による武家政権の新都・鎌倉の象徴となった。

再び若宮大路を北上し、鶴岡八幡宮の境内に入った。平日でも相当な数の人が参拝に来ている。全国に神社は数あれど、これだけの参拝者を集める場所はそうあるものではない。そのまま舞殿まで進む。下拝殿とも呼ばれるだけに、本宮まで上がらず、ここで参拝をする人も多い。

舞殿

この場所では、頼朝に招かれた静御前が舞を披露したと伝わる。当時、舞殿はなく若宮廻廊が建っていたという。静は頼朝の弟・義経の子を腹に宿していた。頼朝は「女子ならば助けるが男子ならば殺す」といい、はたして男子だったため、哀れ由比ヶ浜の海中に沈められてしまった。

静御前(『前賢故実』国立国会図書館蔵)

頼朝没後、
瞬く間に政治の実権は北条氏へ

平家と奥州藤原氏を討伐し、征夷大将軍となった源頼朝。それから700年も続く武家政権の創始はまぎれもない偉業である。

しかし、彼の栄華は長く続かなかった。建久10年(1199)、頼朝は急死する。53歳。一般的に落馬といわれるが、武芸にも馬術にも長じていた頼朝が果たして致命傷となるほどの落馬をするだろうか。謎多き死因には、様々な説が唱えられているが、真相は今や知るすべもない。ともかく頼朝の急な死は彼自身が勝ち得た源氏の天下をも手放す結果となる。

源頼朝(『前賢故実』国立国会図書館蔵)

息子で18 歳の頼家が第二代将軍となるが、5年後の元久元年(1204)に修禅寺で暗殺された。図ったかのように12歳の弟・実朝が後を継がされるも、実権は母・北条政子の実家・北条氏に移っていた。かろうじて成人した実朝も、父・頼朝が築いたこの鶴岡八幡宮で最期を迎える。

鶴岡八幡宮

それは承久元年(1219)1月27日のことであった。雪が積もる寒い日に八幡宮拝賀をした実朝は、神拝を終えて退出した。外は夜だった。大石段を下りたところで実朝は襲撃を受け、抵抗する間もなく討たれた。

刺客は兄・頼家の子、公暁であった。実朝にとっては甥であり猶子(義理の息子)でもあった。三代将軍・実朝の死で源氏の将軍は途絶え、血みどろの抗争の末、執権の北条氏が鎌倉幕府を掌握することとなる――。

夜になった。再び舞殿に向かう。境内を明かりが鈍く照らしている。大石段を登り、本宮へと参拝した。昼間と比べれば格段に少ないが、午後8時を過ぎても、まだ参拝に訪れる人の姿がちらほら見られた。

地元民らしき人も、慣れた足取りで境内を通過していく。このあたりに住む人々にとって八幡宮は身近な存在で、夜に境内を歩くことも日常の一部となっている。段上より若宮大路を見下ろしながら、実朝の最期と鎌倉幕府の衰亡とに思いを馳せた。

戦国武将たちと鶴岡八幡宮
新興勢力・後北条氏が出現

源氏将軍は三代で断絶したが、鎌倉幕府は勢力争いを制した執権・北条氏が手綱を握り、約150年間の命脈を保つ。しかし正慶2年(1333)、新田義貞率いる軍勢に攻め滅ぼされ、足利氏による室町幕府が確立。政治の中心地は京都に戻った。

鎌倉は首都としての機能を失い、八幡宮も衰退の時期を迎えた。だが室町幕府は鎌倉を放置したわけではなかった。足利尊氏は「鎌倉府」を置き、長官を派遣して関東10カ国を管轄させる。

しかし、「応仁の乱」で知られる通り、政治は乱れ、戦国乱世を招いた。鎌倉府でさえ京都の幕府と激しく対立。鎌倉府の補佐役に過ぎなかった関東管領の上杉氏や関東の豪族らも台頭して抗争を繰り広げ、統制できなくなった。

そうした戦国の世において、急速な台頭を見せたのが小田原に拠点を置いた北条氏であった。この北条氏は、鎌倉時代の執権を務めた北条氏とは直接の関わりがなく、当初は伊勢氏を名乗っていた。

初代・伊勢新九郎はのちに北条早雲と呼ばれる人で、「北条」姓は二代目・氏綱の代から名乗ったものだ。この改姓はいうまでもなく名門にあやかって関東の支配権の正統性をもつためである。

小田原と相模湾

北条氏綱は相模国(神奈川県)を支配すると、鶴岡八幡宮の再興に力を注ぎ始めた。そこへ、安房国(千葉県)の里見義豊が三浦半島を経由して攻め寄せた。里見軍は八幡宮にも乱入。激戦となるなかで御社殿が燃え始め、炎上する。

その後、里見軍は北条氏の拠点・玉縄城(現在の大船付近)を攻めるが落とせず撤退した。八幡宮を焼いた里見氏の名声は落ち、その後に御社殿を復興した北条氏綱は名を高めた。八幡宮は武家の守護神として、なお東国の人々に重んじられ続けていたのだ。

後北条氏はその後、小田原城を築き上げて関東に勢力を広げ、鎌倉の旧勢力・扇谷上杉氏と山内上杉氏を打倒した。敗れた関東管領・上杉憲政は越後の春日山城の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼り、関東管領職と山内上杉姓を譲り渡した。

越後から
上杉謙信が大軍を率いて鎌倉へ

長尾景虎は上杉輝虎と称し、関東出兵の大義名分を得て、北条氏の本拠地・小田原城を包囲する。この時、輝虎(以下、謙信と表記)には北条に敵対する関東の諸勢力が付き従い、総勢10万の大軍勢となる。一方の北条は三代目・氏康の代になっていた。氏康も勇猛かつ有能な武将だが、さすがに多勢に無勢、小田原城に立て籠もり、ひたすら籠城戦に徹した。

謙信は10日ほど城の包囲を続けたが、小田原城は堅城。攻めるに攻められなかった。そこで威信を示すため、鶴岡八幡宮へ参詣した。関東管領に就任するにあたり「拝賀の儀」を執り行うためだ。謙信は鳥居の前で輿を降りて境内へ入った。

逸話があり、この時に武蔵国・忍城主の成田長泰が下馬しなかったため、謙信は無礼と見て扇子で成田の顔を叩いたという(『関八州古戦録』)。成田は陣を引き払い、何人かの将も本拠へ帰ったという。かくして謙信の小田原攻めは失敗に終わる。

「芳年武者无類 弾正少弼上杉謙信入道輝虎」(国立国会図書館蔵)

北条氏綱や上杉謙信が訪れた頃の八幡宮は、どんな様子だったのだろうか……。想像しながら境内を散策する。頼朝を祀る白旗神社の前に出た。時が経ち、小田原城を開城させて全国を統一した豊臣秀吉も八幡宮に詣で、頼朝の墓や白旗神社にも参拝している。その時、秀吉は頼朝像に近寄ると「御身と吾は天下友達である」と、像の背中を叩いたという逸話が残る。

源頼朝の創建以来、鶴岡八幡宮は神仏双方が祀られた場所であったが、明治初期の廃仏毀釈で仏教関連の堂宇は全て破壊されてしまった。

しかし、時代の荒波を幾度も乗り越えてきた鶴岡八幡宮は鎌倉の歴史そのものであり、観光都市の顔としての役割を果たし続けている。

文/上永哲矢 撮影/島崎信一

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