42469渋沢栄一も注目した秩父地方のシンボル「武甲山」。現代日本を支えつづける名峰を行く〈山と景色と歴史の話〉

渋沢栄一も注目した秩父地方のシンボル「武甲山」。現代日本を支えつづける名峰を行く〈山と景色と歴史の話〉

男の隠れ家編集部
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埼玉県を横断する荒川の上流部、秩父市と隣接する秩父郡4町(横瀬町・皆野町・長瀞町・小鹿野町)を合わせた地域を「秩父地方」と呼ぶ。 「秩父」の名は『続日本紀』の和銅元年(708)正月乙巳の条に武蔵国の郡名として載るのが初見だが、「ちちぶ」の語源には諸説あり、武蔵国成立以前に置かれた知々夫国造に由来するとも、幾千もの山がそびえ立つので「千々峰」(知々夫)と呼ばれるようになったともいわれている。 今回は、秩父市と横瀬町の境界にまたがる「武甲山」の歴史を振り返る。
目次

神が鎮まる山

秩父盆地の南端に位置する「武甲山」は、悠久の昔から人々の暮らしに恩恵を与えてくれるかけがえのない山だった。

武甲山山頂からの眺め。眼下に秩父市内、遠くに谷川連峰、日光の山々も望むことができる

古くは「嶽(嶽山)」といい、時代の移り変わりとともに「知知夫ヶ嶽(秩父ヶ嶽)」→「祖父ヶ嶽」→「武光山」→「妙見山」→「武甲山」と山名を変えたが、いつの時代も神が鎮まる神体山(神奈備山)として崇められてきた。

いにしえの人々は、朝夕、手を合わせては山にかかる雲の流れから天気を占い、日照りがつづけば雨乞いのための登山もおこなったという。

秩父神社の境内から見た武甲山 

秩父地方の総鎮守・秩父神社

秩父盆地の中心に鎮座する秩父神社は、秩父地方の総鎮守として崇敬を集める古社で、もともとは神体山である武甲山の遥拝所(ようはいじょ)ではなかったか、といわれている。

秩父神社の神門

神社の創建は、崇神天皇の時代に秩父開拓の祖・知々夫彦命(ちちぶひこのみこと)が遠祖・八意思兼命(やごころおもいかねのみこと)を祀ったことに始まるとされ、鎌倉時代末期に妙見大菩薩を勧請して神仏習合の妙見信仰が導入された。

秩父神社の本殿北側の中央に彫刻された「北辰の梟」。妙見信仰に由来する

以来、約5世紀半にわたり「妙見宮」(秩父大宮妙見宮)として人々の尊崇を集め、明治時代の神仏分離により妙見大菩薩を天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と改称し、社名も「秩父神社」と旧に復して現在に至る。

毎年12月2日・3日のおこなわれる例大祭は「秩父夜祭」といい、その起こりは知々夫彦命が八意思兼命を祀った時代か、それ以前にも神体山である武甲山に対する祭祀があったのではないか、とも。

秩父神社の南約1キロメートルの御旅所から見た武甲山。この場所で神事「斎場祭」が執り行われる

例大祭の「付けまつり」として笠鉾・屋台が曳かれるようになったのは約300年前のこと。江戸時代、養蚕業・織物業の発展とともに祭りにあわせて市が立ち、遠方から訪れる人々を楽しませるために始められたという。

養蚕業・織物業からセメント産業へ

幕末から明治にかけて、秩父地方の名産「秩父銘仙」は絹織物の人気ブランドとしての地位を確立。大正3年(1914)の秩父鉄道(当時は上武鉄道)の秩父―熊谷間の開業は秩父銘仙の販路拡大を後押しした。

秩父市にある「ちちぶ銘仙館」内の織場。後継者育成講座で使用する織り機が並んでる。

やがて時代の流行とともに洋服が主流となり、秩父銘仙の生産量が減少していく。そんななか、新しい産業として注目されたのが武甲山の石灰石だった。

――ここで話は明治40年(1907)まで遡る。

この年、埼玉県出身の林学者・本多静六が欧米視察から帰国すると、渋沢栄一は遠戚で日本煉瓦(れんが)製造専務の諸井恒平や親しい友人を集め、東京・王子の自邸で晩餐会を催した。当時、渋沢は全国各地で「国家にとって地方は真に元気の根源、富裕の源泉である」と地域の特色を活かした産業振興の重要性を説いていた。

「今日は埼玉県の有力者が多い。ぜひ、あの話を聞かせてやってほしい」

そう渋沢から話を振られた本多は「欧米は従来の煉瓦建築からセメントの鉄筋コンクリートに代わった」と語り、諸井の関わる煉瓦会社を「セメント会社に発展させてはどうか」と助言。このとき、その原料として本多が紹介したのが武甲山の石灰石だったという。

渋沢栄一(国立国会図書館所蔵)

この本多の話がきっかけとなり、渋沢の資金援助を受けた秩父鉄道が大正6年に武甲山南麓の影森まで延伸し、大正12年に諸井によって秩父セメント(現・太平洋セメント)が設立された。

秩父鉄道「影森駅」から見た武甲山

日本の高度経済成長を支えた武甲山 

首都・東京に近い秩父地方のセメント産業は関東大震災、第二次世界大戦後の復興需要を受けて急成長を遂げる。武甲山で採掘された石灰石は、セメントの主原料として特に高度経済成長期以降、日本の都市構築に貢献する一方、地場産業として地域の経済を支えた。

北麓から見た武甲山

武甲山をはじめとする、秩父地方のセメント輸送と沿線の観光開発のために西武鉄道秩父線が開業したのは昭和44年(1969)のこと。昭和56年に始まった、武甲山山頂から階段状に掘削する「ベンチカット」工法を用いた採掘は現在もつづき、標高は32メートル低くなった。

横瀬町から見た武甲山

この山頂からの採掘に至る過程にはさまざまな葛藤があったといい、日本の発展、そして地場産業のために「やむなし」という苦渋の決断だったと聞く。今日、人々は先人たちの決断を尊重しつつ、日々変わりゆく山容を見守りつづけている。

秩父市大野原から見た武甲山

文字どおり身を削って恩恵を与えてくれる武甲山。その姿は変わっても、秩父地方の人々の心の拠り所、かけがえのない故郷の山であることに変わりはない。

秩父盆地の北方にある「破風山」(皆野町)から見た武甲山

文・写真/水谷俊樹(作家・漫画原作者)
1979年、三重県尾鷲市生まれ。現在は執筆活動のほか、歴史ジャンルを中心にマンガの企画や監修を手掛ける一方、東京コミュニケーションアート専門学校で講師を務める。主な著作に『CD付「朗読少女」とあらすじで読む日本史』(中経出版)、監修を担当する作品に『ビッグコミックスペリオール』で連載中の『太陽と月の鋼』(小学館)などがある。趣味の登山は2006年8月の「富士山」登頂以降、日本百名山にも挑戦中。

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