物悲しくも美しい城址に響く旋律

天才作曲家として生涯で34曲を残した瀧廉太郎は、豊後国日出藩(大分県)で代々家老を務める武士の家に生まれた。

父・吉弘は明治政府の役人で大久保利通や伊藤博文の側近として仕えていた関係で、幼少時代から横浜や富山、大分県竹田市などを移り住んでいた。明治23年(1890)、15歳で東京音楽学校(現・東京芸術大学)へ入学し、ピアノと和声学を学び、明治31年(1898)に首席で卒業。研究科へと進んだ。

岡城址の大手門跡。幻想的な月あかりに浮かぶ、かつての面影は廉太郎が見たものだろうか。

この年、詩人の土井晩翠は東京音楽学校から中学唱歌のために作詞を依頼され、「荒城月」(後に「荒城の月」)を書き上げた。廉太郎はこの詩を乗せる曲の公募のため、あのメロディを作曲し、そして採用されたのである。

作曲にあたり「荒城月」の詩で思い浮かんだ情景は、幼少期を過ごした大分県竹田市の岡城だといわれている。岡城は明治4年(1871)、廃城令により建造物が全て破却され、廉太郎が竹田市で過ごした頃には、すでに石垣のみの山城だった。

昭和11年(1936)、国の史跡に指定され日本100名城にも選定された岡城址。

文治元年(1185)に緒方惟義が源義経を迎えるために築城したのが始まりといわれ、以後700年にわたり数多の主人を迎え入れ、幾つもの戦を乗り越え、そして取り壊された城跡は廉太郎少年の心にどのように映っていたのだろうか。

廉太郎の音楽は日本人らしい繊細さと、四季折々の美しい情景がイメージできるリズムとメロディが特徴だ。「荒城の月」においては悲哀や慈悲を込めた旋律が物悲しく、人の心に残る。そのメロディは海を越え、ベルギー・シュヴトーニュ修道院の聖歌としても使われている。

竹田市にある「廉太郎トンネル」は、中を歩くとオルゴールの音色で「荒城の月」や「花」など廉太郎の残した名曲が流れる。

荒れ果てた城を照らす、月あかり。この情景こそが世界に誇る天才作曲家・瀧廉太郎の才能を引き出した、唯一無二の景色だったのかもしれない。

滝廉太郎像。

もうひとつのモデルを探る「歌詞のモデルは別の城!?」

「荒城の月」は詩先の曲である。詩人の土井晩翠が中学唱歌のために書き下ろした「荒城月」。この詩のモデルは仙台市の青葉城や、会津若松市の鶴ヶ城といわれており、廉太郎が構想を得た岡城と共に、歌碑が設置されている。

昭和21年に土井晩翠は、詩のモデルは鶴ヶ城だったと会津でスピーチしたという。

※2018年取材

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