19560【大河ドラマ『麒麟がくる』がさらに面白くなる!】史実から読み解く「織田信長」|齋藤道三亡き後〜尾張統一まで

【大河ドラマ『麒麟がくる』がさらに面白くなる!】史実から読み解く「織田信長」|齋藤道三亡き後〜尾張統一まで

男の隠れ家編集部
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2020年大河ドラマ『麒麟がくる』は戦国時代の名将・明智光秀(長谷川博己)を主役としたオリジナル作品だ。のち光秀の主君となる織田信長(染谷将太)の視点から、実際の史実ではどうだったのかを紹介していく。今回は信長の庇護者として支え続けた美濃の守護代・斎藤道三(本木雅弘)の死後、反信長の動きが活発化した尾張国内において、信長が尾張織田家を統一していくまでの過程を追う。
目次

義父道三を失い、活発化する反信長勢力の動き

弾正忠家の内部分裂

斎藤道三という後ろ盾を失ったことで、信長は三河に加え、美濃にも大きな敵を抱えることになり、一転して窮地に追い込まれた。のみならず、尾張国内でも反信長勢力の動きが活発化する。そのような状況下、弾正忠(だんじょうのじょう)家内で信長を廃し、代わって弟・信勝を家督につけようとする動きが表面化した。首謀者は、信長の宿老で、那古野城主となっていた林秀貞(はやしひでさだ)とその弟・美作守(みまさかのかみ)、そして信勝の家臣・柴田勝家である。

弘治2年(1556)5月下旬、林兄弟は信長への敵対意志を表明すると、米野(こめの)城、大秋(おおあき)城の守りを固めて清須〜那古野間の交通路を遮断。また、秀貞の与力で荒子(あらこ)城主の前田与十郎が清須〜熱田間を封鎖した。さらに守山城主で信長の異母兄であった秀俊が家臣の角田(つのだ) 新五に殺害されるという事件が起こる。

『信長公記』によると、秀俊に疎んじられた角田の私怨によるものであるといい、その後、角田は岩崎の丹羽氏勝(にわうじかつ)の軍勢を守山城に引き入れ、守りを固めた。のち角田が信勝に仕えている事実に鑑み、この事件の黒幕はおそらく信勝で、信長派であった秀俊の排除をもくろんだ謀略だったのではないかと目されている。

こうして清須城を囲むように、岩倉城(織田信安)〜守山城(角田新五)〜末盛城(織田信勝)〜那古野城(林秀貞)〜米野・大秋城(林美作守か?)〜荒子城(林の与力・前田与十郎)という信長包囲網が形成されたのであった。

信勝を圧倒した信長

弘治2年8月、信勝はついに信長と対決する決意を固め、信長の直轄地であった篠木(しのぎ)三郷を押領した。また、庄内川( 於多井(おたい)川)沿いに砦を築くなど、あからさまな敵対行動に打って出た。もはや、兄弟の関係は修復できないところにまできていた。8月22日、信長は信勝と対峙すべく、庄内川東岸の名塚に砦を築くと、そこに佐久間大学(盛重)を置いた。

先に行動を起こしたのは信勝だった。23日、信勝は勝家に1000の軍勢を与え、末盛城を出立させた。これに林美作守が700の兵を率いて加勢している。なお、信勝自身は末盛城を離れなかった。

一方、翌24日、信長は自ら700の兵を率いて清須城を出陣した。両軍は清須城の東方約5キロの稲生原(いのうはら)で激突。兵力面では劣勢を強いられたものの、主将自ら陣頭に立って指揮を執る信長勢の士気は高く、柴田勢はたちまち崩れ、林勢も美作守が信長に討ち取られたことで崩壊した。

こうして兄弟対決は信長の勝利に終わったが、母、土田氏の取り成しもあり、信長は信勝、勝家、秀貞らの罪を問うことはしなかった。しかし、その後も信勝は美濃の斎藤義龍(高政)と結びつき、また龍泉寺に新たに築城するなど信長への反抗をあきらめなかった。

織田伊勢守家を降し、尾張織田家を統一へ

伊勢守家との対決の時

弟・信勝の反乱を鎮定したのも束の間、今度は異母兄の信広が信長への謀反を企てた。『信長公記』によると、信広は美濃の斎藤義龍(高政)と通じ、義龍と信長が戦っている隙に清須城を奪おうともくろんだが失敗、結局信長に許しを請うたという。こうして尾張下四郡における敵対勢力をほぼ制圧し終えた信長は、次なる攻撃目標を尾張上四郡の守護代・織田伊勢守家に定めた。いよいよ尾張全域の平定に乗り出したのである。

一方この頃、織田伊勢守家中においても御家騒動が勃発していた。次子・信家を跡継ぎに立てようとした時の守護代・信安を、嫡子・信賢が岩倉城から追放したのである。そして義龍と結び、信長に抵抗の意を示したのであった。

これに対して信長は、犬山城主で従兄弟の織田信清を味方につけると、永禄元年(1558)7月12日2000余騎の軍勢を率いて出陣。犬山城から来援した信清勢約1000と合流し、浮野(うきの)で岩倉勢約3000と対峙した。岩倉勢の3000という数字には疑問が呈されているが、それでも当時の伊勢守家が相当の勢力を誇っていた様子がうかがえる。尾張統一をもくろむ信長にとって最大の強敵であったに違いない。

だが戦いは一方的な展開となり、信長勢が岩倉勢の将兵を1250も討ち取るという圧勝を収め、岩倉勢はほうほうの体で岩倉城へと退却したという。

こうして岩倉勢に壊滅的な打撃を与えた信長であったが、そのような状況下、弟・信勝がまたしても謀反を企てているとの報が入った。密告者は、信勝のもとを去り、信長に忠誠を誓った柴田勝家である。津々木蔵人(つづきくらんど)を寵愛した信勝が勝家をおろそかにするようになったために見限ったのだと伝わる。もはや信勝を放っておくことはできないと考えた信長は11月2日、病と偽って清須城へ呼び寄せた信勝を殺害し、憂いを断った。

ついに尾張織田家を統一した信長

年が明けた永禄2年(1559)2月2日、信長は唐突に上洛を果たし、室町幕府13代将軍・足利義輝(あしかがよしてる)に拝謁した。上洛の理由については定かではないが、伊勢守家の命運が風前の灯である状況下、自身が名実ともに尾張の第一人者であることを示すとともに、尾張一国の支配権を認めてもらおうとしたのではないかと推測されている。

3月、信長はいよいよ岩倉城攻略に乗り出す。まず城下を焼き払い、裸城としたところで城の周囲に二重、三重の鹿垣(ししがき)を巡らすと、連日のように城内に向けて火矢や鉄砲を撃ち込んだ。岩倉勢も必死に持ちこたえたが、2、3か月の籠城の末、ついに降伏。こうして信長は、尾張織田家の統一に成功したのであった。

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