戦国の乱世に一躍台頭した信長

今川義元の尾張侵攻

永禄2年(1559)後半には、ほぼ尾張一国を支配下に置いた信長であったが、一方で、尾張南部では今川義元の圧力が強まっていた。鳴海(なるみ)城主・山口教継父子の内応によって鳴海城、大高城、沓掛(くつかけ)城を乗っ取った義元はその後、織田方との関係を疑って教継父子を殺害。代わって鳴海城には岡部元信、大高城には朝比奈泰朝(あさひなやすとも)を入れ、尾張進出の前線基地としたのである。

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伊勢湾に注ぐ黒末川近くに位置する鳴海城は軍事・流通の拠点として重要な役割を担っており、ともすれば信長の経済拠点・熱田を脅かしかねなかった。そこで信長はまず鳴海城、大高城を奪還すべく、鳴海城に対しては丹下(たんげ)砦、善照寺(ぜんしょうじ)砦、中島(なかしま)砦を、さらには鳴海城と大高城との連絡を遮断するため、鷲津(わしづ) 砦、丸根(まるね) 砦を構築した。

この信長の動きは、逐一義元に報告されていた。義元にしても鳴海城、大高城は尾張制圧における重要な境目の城であり、信長の動きを見過ごすことはできなかったのである。すでに天文23年(1554)には領国を接する甲斐の武田信玄、相模の北条氏康との間に軍事同盟(甲相駿三国同盟)が成立しており、背後を気にする必要もない。そして永禄3年(1560)5月12日、満を持して西進を開始したのであった。その軍勢は25000とも40000ともいわれる。18日には国境を越え、沓掛城に入った。

義元の真の目的は何か

この義元の尾張侵攻について、従来は上洛を目的としたものだといわれてきたが、現在では否定する見方が強い。実際、もし上洛が真の目的であったのであれば、その途上の美濃の斎藤高政(義龍)、近江の六角義賢(ろっかくよしかた)らと事前に何らかの交渉があってしかるべきであるが、義元が彼らと通じていた証はないのである。であれば、義元の思惑はどこにあったのか。それは第一に、尾張侵攻の足掛かりとなる拠点、鳴海城、大高城の確保と織田方の付城の排除であり、第二に、尾張への領土の拡張であったと考えられる。

このとき、三河における今川氏の支配体制はまだ不安定なものだった。また、もともと尾張那古野を治めていたのは義元の弟で尾張今川家の氏豊(うじとよ)であった。これらのことから、義元は三河の支配を固めるため、またかつての旧領を奪還するために尾張への侵攻をもくろんだとする考えが、現在、支持を集めるようになっている。

寡兵で勝利を収めた信長

18日、沓掛城に入った義元は将を集めると、松平元康(のちの徳川家康)、朝比奈泰朝を先鋒に命じ、19日早暁から織田方の砦を攻撃するよう下命した。元康は大高城への兵糧搬入と丸根砦の攻略、泰朝は鷲津砦の攻略である。

一方、18日夕刻の時点で、これらの情報は清須城の信長のもとに届けられていたが、信長は軍議を開くことなく家臣らに帰宅を命じたため、みなあきれ返るばかりであったという。だが翌19日早朝、今川勢が丸根砦、鷲津砦に攻め入ったという報が入ると、信長は即座に行動を開始。謡曲「敦盛(あつもり)」を舞い、立ったまま湯漬けをかき込むと、具足をつけて出陣した(『信長公記』)。

あまりにも突然のことであったため、このとき付き従ったのは小姓衆わずか6人であったという。清須城を出た信長はまず熱田神宮で戦勝祈願を行なうと、丹下砦を経て、善照寺砦へ入った。ここで軍勢を整えた信長であったが、その数は2000、もしくは3000に過ぎなかった。

正午頃、丸根砦、鷲津砦が陥落する。この報を聞いた義元は桶狭間山(おけはざまやま)で昼食休憩に入った。陣所では謡や舞を行なうなど、勝利に酔いしれていたと伝わる。これに対し、信長は自ら軍勢を率いて中島砦から桶狭間山へ進軍。「小勢でも大敵を恐れるな」と兵らを鼓舞すると、大雨が降り止んだ時を見計らい、今川方の本陣に襲いかかった。たちまち前衛隊を打ち崩した信長はその勢いのままに義元の本陣を急襲。乱戦の最中、服部一忠(はっとりかずただ)が義元に槍をつけ、毛利良勝(新介)が義元の首を取った。

『桶狭間合戦討死者書上』(長福寺文書)によると、今川方の戦死者が2753人だったのに対し、信長方の戦死者は990人余だったという。信長勢の実に半分近くが戦死するという激しい戦いであった様子がうかがえるが、この勝利で信長は尾張からの今川勢力の一掃に成功したのであった。なお従来、信長は善照寺砦から太子ヶ根(たいしがね)という丘陵を迂回し、そこから桶狭間の義元に奇襲をかけたとされてきたが、現在は中島砦から進軍し、正面から義元を討ち取ったとする見方が有力視されている。

信長の死まで続いた、堅固な盟約「清洲同盟」

松平元康(徳川家康)の自立

桶狭間の戦いで今川義元が敗死したのち、今川氏の旧領を受け継いだのは子の氏真(うじざね)であるが、その求心力は急速に低下し、それまで従属していた国人らの離反が相次いだ。そのうちの一人に、松平元康がいる。義元の死後、今川勢の撤退した岡崎城に戻った元康は、三河における支配権を取り戻すべく、今川勢力の排除に乗り出した。永禄4年(1561)閏3月には、前年まで今川方であった原田新六(はらだしんろく)と簗瀬家久(やなせいえひさ)を自陣に取り込むべく起請文を発給している。一方で、三河と尾張の境を治めていた信長の同盟者で叔父の水野信元とも抗戦していることから、当初は信長とも敵対関係にあったと目されている。もっとも、信元は元康の父である広忠を見限り、信長の父・信秀方についたという経緯があるため、両者は長らく対立関係にあったと思われる。

だが元康は反信長の姿勢を改め、信元の仲介により信長と軍事協定を締結した。いわゆる清須同盟である。もっとも、このとき信長・元康が清須城で会見したとする従来の説は否定されている。

この頃、織田氏と松平氏の勢力圏、尾張と三河の国境が確定された。三河制圧をもくろんでいた元康にとっては信長の後ろ盾が不可欠であり、また美濃侵攻を図りたい信長としては東方における安全を確保しておきたいという思惑があった。以降、この同盟は信長が死ぬまで継続されることとなる。

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